今は昔、釈迦如来の母、摩耶夫人は、彼女の父の善覚長者と共に、春のはじめ二月八日に、嵐毗尼(ルンビニ)園に無憂樹(ムウジュ)を見に行きました。夫人は園に到着すると、宝の車より降りました。たくさんの美しい瓔珞(ネックレスや腕輪などの装飾品)をつけた彼女は、無憂樹に歩み寄ります。彼女には八万四千人の女官が従っており、十万の車をつらねておりました。大臣や公卿、さまざまな役職の官がしたがっていました。
樹は葉がしげり、根元まで枝が垂れていました。あるいは緑、あるいは青、孔雀の首のように照り輝いてとても美しいのです。夫人が樹の前に至り、右手を挙げて樹の枝をとろうとした時、右脇から太子が生まれました。光が放たれました。
そのとき、天人・魔王・梵天・沙門・婆羅門などが、樹の下に充ち満ちました。生まれ落ちた太子を、天人は手をそえ、四方に七歩ずつ歩ませました。
その足を降ろそうとすると、蓮の花が咲いて、足を受けます。
南に七歩あるいては、人々に福を生じる源となることを示します。西に七歩あるいては、これが老・死を断ち切る最後の生であることを示します。北に七歩あるいては生死を離れることを示し、東に七歩あるいては、人々を導くことを示します。四隅に七歩あるいては、煩悩を断じて仏を成ることを示します。上に七歩あるいては、不浄の者に接しても穢れないことを示、下に七歩あるいては、法の雨を降らして地獄の火を消し、人々に安穏の楽をもたらすことを示します。
太子はあらゆる方角に七歩ずつ歩み終えると、頌(偈)を説きました。
我生胎分尽。是最末後身。我已得漏尽。当復度衆生。
(大意)
私はこれまで輪廻転生によって数々の生を生きてきたが、これが最後となる。私はもう生まれ変わらない。私はすでに迷妄を断ち切っている。今後は人々を助ける。
七歩のあゆみは七覚支(仏教修行の一つ)の心を表します。歩むごとに地より蓮の花が生ずるのは、地神のはたらきによるものです。
四天王は天の織物で太子を包み、宝の机の上に置きました。帝釈天は宝の傘をさし、梵天は白い払子(ほっす、坊さんが持ってる白い毛のついたほうきみたいやつ)をとって左右に控えました。難陀・跋難陀(なんだ・ばつなんだ)の竜王は、虚空の中から清浄の水を吐いて、太子の身にかけました。水は温かくなったり冷たくなったします。太子の身は金色で、仏だけが持つ三十二の相を備えていました。大いに光明を放ち、すべての世界を照らします。天竜八部(仏法を守護する竜や夜叉など)は、虚空の中にあって天の音楽を奏でます。天から天衣や瓔珞が、乱れ落ちる雨のように降ってきました。
(巻一第二話②に続く)
【翻訳】
草野真一
【解説】
草野真一
いわゆる天上天下唯我独尊である。
釈迦の実在は考古学的な証拠があり間違いないこととされている。他に類がない傑物であるというのも正しいだろう。なにしろ世界中の何十億人という人が、いまだに彼の言葉(とされているもの)を真理だとしているのだ。彼に並ぶ人は他にいない。もちろん今もないし昔だってない。つまり、紀元前から、世界のどこにもないってことなのだ。これが天上天下唯我独尊でなくてなんだろう。
にもかかわらず、この話はマユツバくせえなーと思ってしまう。そう感じるのは一カ所だけ、彼が母親の右脇から生まれたというエピソードだ。そんなはずあるかよ。ジーザスの処女懐胎も同じ理由でウソだと思っている。
そのくせ、その他の話はたいがい信じているのだ。生まれたばかりの子どもが7歩あるいたとか、天人が集まって彼の誕生を祝福したとか、非現実的な話だけど、釈迦ならそういうこともあっただろうなと思っている。
仏教では、生きとし生けるものは十の世界のいずれかに住むとする。このうち6つを六道といい、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の6つだ。人間は人間界に住む。
六道に住む人は救われない。
天人とは天の住人であり、寿命は1万6千歳、他人の快楽を自分のものとして楽しむことができ、見るだけでセックスするという。人より圧倒的に優れた存在なのだが、衰えること死ぬことからは逃れられない。
次のエピソードは、人間として生まれる前、釈迦は天人であったが、衰えること――いわゆる天人五衰から逃れることはできなかったと語っている。
地蔵が6人いて六地蔵とされることが多いのは、六道にある者を救うためだとされている。6つの世界それぞれをひとりの地蔵が担当しているのだ。
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