巻1第31話 須達長者造祇薗精舎語 第卅一
今は昔、天竺の舎衛国(しゃえこく、コーサラ国)に一人の長者(富裕な人)がおりました。名を須達(すだつ、スダッタ)といいます。彼は一生の間に、七度富貴を体験し、七度貧窮に苦しみました。七度目の貧は、前の六度に比べものにならないほど激しいものでした。牛の衣ほどの着物もなく、菜に調味料も入れられぬほどでした。夫妻ともに歎き、世を過ごしていました。近隣の人にも嫌われ、親族も厭いました。
あるとき、三日間なにも食べられず、餓死しようというとき、以前、財が保管してあった何もない倉に行きました。
「塵ほどのものでもあれば」と見ると、栴檀の升(ます)の、角がとれて落ちてしまったものがありました、須達は市に出て、これを米五升(約9リットル)に変えて、家に持ち帰り、そのうちの一升を原資としておかずを得るためにまた市に出ました。^
妻は残りの四升のうち一升を炊いて、須達の帰りを待っていました。すると、仏の御弟子、解空第一の須菩提(しゅぼだい、スブーティ)が来て、食を乞いました。妻は須菩提の鉢に炊いた飯を一粒も残さず盛り、供養しました。また一升を炊き、夫を待っていると、神通第一の目連(もくれん、モッガラーナ)が来て、食を乞いました。同じように供養しました。また一升を炊き、夫を待っていると、多聞第一の阿難(あなん、アーナンダ)が来て、食を乞いました。やはり同じように供養しました。
妻は思いました。
「米はまだ、一升残っている。白米として炊いて、夫とこれを食べよう。今後はたとえどんな御弟子が来たとしても、絶対に供養するまい。まず私の命をつながなくては」
飯を炊くと、未だ須達が戻らないうちに、釈尊が来て、食を乞いました。
妻は「最後の米は自分で食べる」といいましたが、仏が来たのを見て、随喜の涙を拭い、礼拝し、供養しました。仏は妻のために偈を説きました。
貧窮布施難(貧窮すれば布施をすることが難しく)
富貴忍辱難(富貴であれば忍辱することが難しく)
厄嶮持戒難(災厄に見舞われれば戒を保つことが難しく)
小時捨欲難(若ければ欲を捨てることが難しい)
仏はこう説いて、去りました。
その後、須達が帰ってきました。妻は羅漢(聖者)と仏が来たことを語りました。夫は言いました。
「とてもよいことをした。おまえは私にとって生涯の善知識だ」
たいへんに喜び、妻をたたえました。
そのとき、元からあった三百七十のカラの蔵に、宝が満ちました。以降、須達は誰よりも富貴になりました。そのときの富貴は、過去六度のものを大きく上回るものでした。須達は永く世に名を知られ、閻浮提(えんぶだい、世界)に並ぶ者のない分限者となりました。
ある日、須達は思いました。
「よい土地を求め、伽藍を建立して、釈尊と御弟子にいていただいて、一生の間、毎日供養しよう」
そのころ、祇陀(ぎだ、ジェータ)という太子(王子)がありました。たいへんめでたい勝地を所領していました。左右に水と竹を、前後に草と樹を備えた土地です。須達は太子に言いました。
「私は仏の為に伽藍を建立しようと思っています。この地はまさに適当です。太子よ、ここを私にゆずってください」
「この土地は、東西に十里(約40㎞)、南北に七百余歩(約2.4平方キロメートル)ある。国内はもちろん隣国の豪族も私のもとに来てこの土地を乞うたが、私はゆずらなかった。しかし、おまえは仏の為に伽藍を建立したいという。ならば惜しむ心はない。この土地に黄金を六寸(約1.9センチ)敷きつめてみよ。それを値としよう」
須達は太子の言を聞いて、おおいに喜びました。車・馬・人夫によって黄金を運び、土地に敷きつめ、太子に与えました。太子は約束どおり土地をゆずりました。
伽藍(中央の堂宇)を建立し、百余院の精舎(寺院)をつくりました。建築物はいずれもとても壮麗で、美しいものでした。中殿には、仏をすえ、院々房々には、深智の菩薩や、五百の羅漢(聖者)にいていただきました。多くの味のよい食べ物を運び、めずらしい宝で満たしました。二十五年の間、仏・菩薩・僧を供養しました。ここを祇園精舎と呼びます。
須達は妻の善知識によって、最後の富貴を得て、思うような伽藍を建立し、仏を供養することができたと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】
草野真一
【解説】
草野真一
この話にあるとおり、祇園精舎は祇陀という人の園に建立したためにその名がついている。舞妓さん(見たことないけど)がいる京都の祇園は祇園精舎から名をとっている。
祇園精舎は釈迦の重要な拠点のひとつである。釈迦は紀元前5世紀の人だから、祇園精舎もそのころからある。
残念ながら現在では仏教を信仰するインド人はほとんどおらず、事情は祇園精舎の遺跡があるウッタル・プラデーシュ州(元コーサラ国)でも変わらない。ただし、祇園精舎のもたらす観光収入は相当に大きなものであるはずだ。なにしろ世界中から人が集まるんだから! 威光は今なお健在と言うべきだろう。
多くの日本人は「祇園精舎の鐘の声」という『平家物語』序文の文句を思い浮かべるが、これができたのは『今昔物語集』のずっと後である。おそらく、成立時には祇園精舎の宗教的権威は失われていた。
寺に鐘があるのは中国仏教の慣習で、インドにはない。したがって、祇園精舎に鐘はなかった。
今はあるよ。日本人向けにつくられた観光用のやつがね。
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