巻10第15話 孔子為教盗跖行其家怖返語 第十五
今は昔、震旦の周の時代に、柳下恵という人がいました。世にも賢い人であると、重用されていました。
その人の弟に盗跖(とうせき)という人がいました。この人はある山の麓を根城として、乱暴な悪人たちを集めて子分にし、他人のものを善悪問わず奪って我が物としていました。気晴らしに出かけるときには、この荒くれ者の子分たちが既にニ、三千人にもなっており、彼らを引き連れて街道を消滅させ、人々を煩わせ、諸悪の限りを尽くしておりました。
ある時、兄の柳下恵が道を歩いていると、孔子に出会いました。孔子は言いました。「あなたはどちらに向かわれるのですか。私はちょうどあなたにお会いして申し上げようと思っていることがありましたが、幸いにもこうしてお目にかかることができました」
柳下恵が「私に何か仰りたいことがおありなのですか」と問うと、孔子は「お会いして申し上げたかったのは、あなたの弟の盗跖のことです。彼は諸悪の限りを好み、荒くれ者たちを招き集めて子分とし、多くの人々をなげかせています。ついには世を滅ぼすやもしれません。どうしてあなたは、兄として教え諭そうとなさらないのですか」と言いました。
柳下恵は答えました。「盗跖は確かに弟ですが、私か教え諭すことを聞くような者ではありません。それで長年、弟のことを嘆きながらも教え諭すにはいたりませんでした」
孔子が「あなたが弟を教え諭すお気持ちがないならば、私が盗跖のところへ行って教え諭そうと思いますが、いかがでしょうか」と言いますと、柳下恵は答えました。「あなたが盗跖のもとへ行かれて教え諭されるなど、尚更行われるべきではありません。あなたがどれほど巧みな言葉で教え諭されようとも、それになびくような者ではないのです。却って悪いことを招くかもしれません。決してそのようなことがあってはなりません」
孔子は「悪人と言えども、盗跖も人の子です。ひとりでに良いことを行おうとするように変わっていくこともあるやもしれません。それを分かっていながら、『引き受けまい』と仰って、あなたが兄としてなすべき教えをなさず、知らん顔を決め込んで放任しておられるのは、とても良くないことです。よしよし、見ていなさい。私が自ら盗跖のもとへ行って教え諭し、感化して見せて差し上げましょう」と大言を吐いて、その場を立ち去りました。
その後、孔子は盗跖のもとへ行かれました。馬を下りて門の前に立ち、見回すと、ある者は甲冑を着て弓矢を着け、またある者は刀釼を前に置いて兵仗を手に取っています。鹿や鳥などの様々な獣を殺すための道具も隙間がないくらいに置き散らかしてありました。このように、様々な悪事の限りを行う準備が調えられていました。
孔子は近くにいた人をさし招き、「盧の孔丘が参った」と申し入れさせました。この人が戻ってきて「名高く聞き及びのある人らしい。ここには何用で参られたか。『様々なところへ行って人を教える者』と聞く。教えるために来たなら、入って来て教えよ。我が心に叶わなければその内臓を切り刻んでくれよう」と言いました。
すると孔子は盗跖の前に進み出て、庭先に立ったまま盗跖に拝礼しました。それから中に足を踏み入れ、座につきました。盗跖を見ると、甲冑を着て劍を帯び、鉾を手に取っています。髪は三尺(約九〇センチメートル)ばかりにも伸びてくしゃくしゃに乱れています。大きな鈴のような目でぎろりと見回し、鼻息は荒く、歯で上唇を咥えて髭を逆立てていました。盗跖は言いました。「お前は何をしにここへ来たのか。嘘偽りなく言え」その声はしわがれてかん高く、この上なく怖ろしく響きました。
孔子はそれを聞いて思われました。「以前はこれほどまでに怖ろしげな者とは思わなかったものだ。姿や身なりを見ると、もはや人とは思えないほどだ」そして、心の底から震え上がりました。けれども、ここに来た目的を思って心を奮い立たせ、話し始めました。
「人の世で生きるということは、みな道理をもって身を厳かに整え、心の掟としなければなりません。天を頭上にいただき、地を踏みしめ、四方を固めて公を敬い奉り、下の者を哀れんで、人に情をかけることをもってして事としなければなりません。聞くところによれば、あなたは心の赴くままに悪事を行うとのことです。悪事というものはその時だけは心を満足させてくれるでしょうが、結局は良くない結果になるものです。ですから、人はやはり善行を良しとするのです。このように、あなたも私が申し上げたようになさるべきです。このことを申し上げたく、参った次第です」
盗跖はこれを聞いて嘲笑い、雷のような大音声を発して言いました。
「お前の言うことは一つも当たっていない。なぜかと言えば、昔、尭・舜という二人の国王がおわしになり、世の人々からもこの上なく貴ばれたが、その子孫は針の先ほどの領土も得られなかった。また、賢人として世に知られている伯夷・叔斉は首陽山に隠遁して餓死した。また、お前の弟子の顔回という者がいるな。お前は賢く教えたつもりだろうが、思慮が足りず、短命で死んだ。また、これもお前の弟子の子路は、衛の門で殺されてしまった。このとおり、賢い者も最後まで賢くはいられないようだ。また、私が悪事を好むと言えども、我が身に災はやって来ていない。誉められる者もその期間は短く、それは誹られる者も同じことだ。誉められるにしろ誹られるにしろ永久に続くということはない。それならば、善行も悪行も、ただ自らの好みによって行えば良いのだ。お前もまた木を切り刻んで冠とし、動物の皮を衣としているではないか。世間の言うことを恐れ、公に使えると言っても、二度も盧から追放され、衛からも追われている。どこが賢いものか。全くいい加減なことばかりぬかしおる。さっさと立ち去れ。お前の言うことには一つとして役に立つことがない」
孔子はこれに言い返すことを何一つ思いつけず、慌てて座を立って出て行きました。馬に乗るとき、よくよく怖い思いをなさったのか、二度も轡(くつわ)を取り損ね、鐙(あぶみ)をしきりに踏み誤られました。
世の人はこれを「孔子お倒れになる」と言ったと、語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 昔日香
【校正】 昔日香・草野真一
【解説】 昔日香
※柳下恵…周代の魯の賢者。本名、展禽。字は季。魯の大夫・裁判官となり、直道を守って君に仕えたことで知られる
※盗跖…中国の古文献に登場する伝説的な盗賊団の親分。『荘子』では盗跖篇三章が設けられており、古典のうちでは最も詳細に書かれている。 春秋時代魯の孝公の子の姫無駭の末裔である柳下恵の弟。身の丈は八尺二寸という大男であり、九千人の配下を従えて各地を横行し、強盗略奪をほしいままにしたという
※尭・舜…中国古代の伝説上の帝王、尭と舜。徳をもって理想的な仁政を行ったことで、後世の帝王の模範とされた
※伯夷・叔斉…殷代末期の孤竹国(現在地不明)の公子の兄弟。高名な隠者で、儒教では聖人とされる。周の武王が殷を滅ぼし、新王朝の周を立てた後、兄弟は周の粟を食む事を恥として周の国から離れ、首陽山に隠棲してワラビやゼンマイを食べていたが、最後には餓死した
※顔回…孔子の弟子の一人。後世の儒教では四聖の一人「復聖」として崇敬される。魯の出身。孔門十哲の一人で、随一の秀才。孔子にその将来を嘱望されたが、孔子に先立って早逝した。顔回は名誉栄達を求めず、ひたすら孔子の教えを理解し実践することを求めた。その暮らしぶりは極めて質素であったという。このことから老荘思想と結び付けられることもある
※子路…孔門十哲の一人である。また、二十四孝の一人に選ばれることもある。魯国出身。孔子門下でも武勇を好み、そのためか性格はいささか軽率なところがある反面、質実剛健たる人物であった。『史記』によれば、衛の高官にとりたてられ、衛の太子・荘公蒯聵(かいがい)の反乱を諫めたが、「太子には勇気がない。この高殿を放火すれば、太子はきっと孔悝(こうり、衛の高官)を放逐されるだろう」と言い放ったために、蒯聵の家臣に討たれ落命した
※宇治拾遺物語に同じ話がある。











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