巻11第1話 聖徳太子於此朝始弘仏法語 第一
(①より続く)
百済国より弥勒の石像がもたらされました。蘇我の馬子の宿禰という大臣がこの使者を招いて、家の東に寺を造り、像を供養しました。大臣がこの寺に塔を建てようとしたとき、太子が言いました。
「塔を建てるなら、必ず仏の舎利(遺骨)を入れるものだ」
舎利一粒を得て、瑠璃の壺に入れて塔に安置して、礼拝しました。太子はこの大臣と心を一つにして、三宝(仏法僧)を広めました。
このころ、国内に病が流行し、命を落とす人が多くありました。そのとき、大連(おおむらじ、大臣と並ぶ要職)物部弓削の守屋(もののべのゆげのもりや)・中臣の勝海の王(なかとみのかつみのおう)という二人の人が言いました。
「わが国では、古来より神だけを崇めています。しかし近来、蘇我大臣は、仏法を広めています。国内に病が起こり、多くの民が死ぬのはこのせいです。人の命をつなぐために、仏法は止めるべきです」
これを聞くと、天皇は詔を発しました。
「たしかにそのとおりだ。仏法を即座にやめるべし」
太子は申し上げました。
「この二人は、未だ因果(仏教の根本論理)を知りません。善政をおこなえばすぐに福が至りますが、悪く改めたならば禍が来ます。この二人は必ず禍に会うでしょう」
しかし、天皇は守屋の大連を寺に遣わし、堂塔を破壊し仏経を焼かせました。仏像は難波の江に棄て、三人の尼を責め打ち、追い出しました。
この日、雲がないのに大風が吹き、はげしい雨が降りました。太子は言いました。「今、禍がおとずれた」
その後、世に瘡の病(天然痘)がおこり、人々は焼き割かれるように病に苦しみました。二人は悔い悲しみ、申し上げました。
「この病がもたらす苦痛はたえがたいことです。願わくは三宝に祈りたいと思います」
勅命が下り、三人の尼は呼び戻し、二人を祈らせました。また、あらためて寺塔を造り、もとのように仏法を崇めるようになりました。
やがて太子の御父、用明天皇が即位されました。天皇は詔して、「私は三宝に帰依する」とおっしゃいました。蘇我の大臣は勅にしたがい、僧を召して、はじめて内裏に入れました。太子はとても喜び、大臣の手を取って、涙を流して言いました。
「三宝の妙なることを、多くの人は知らない。ただ大臣のみが私と同じ心を持っている。悦ばしいことかぎりない」
そのころ、ある人がひそかに守屋の大連に告げました。
「太子は蘇我と謀議しています。守屋様と中臣様を討とうとしています」
守屋は阿都(地名)の屋敷に軍勢を集め、物部もこれに応じました。二人が天皇を呪っているということが噂になり、蘇我の大臣、太子ともに軍をひきいて守屋を討とうとしました。
守屋は軍で城を固め、攻撃をふせぎました。守屋の軍は強くさかんであり、太子の軍は劣勢で、三度退却しました。そのとき、太子は十六歳でした。太子は軍の後に立ち、軍の司令官である秦の川勝に言いました。
「ただちに木を取って、四天王の像に刻み、髪の上に差し、鉾の先に捧げなさい」
さらに、願を発して言いました。
「我等をこの戦に勝たせてくれたならば、四天王の像をあらわし、寺塔をたてます」
蘇我の大臣も同じように願を発して戦いました。守屋の大連は大なる櫟(いちい)の木に登り、物部の氏神に祈り、矢を放ちました。その矢は太子の鐙(あぶみ)に当たって落ちました。太子は舎人(とねり)迹見の赤檮(とみのいちい)に命じて、四天王に祈らせ矢を放たせました。その矢は守屋の胸に当たり、守屋はさかさまに木から落ちました。軍はそれを契機に乱れ、太子の軍は攻め寄せ、守屋の頸を断ちました。
その後、守屋の家の財をすべて寺の物とし、荘園を寺領としました。玉造(大阪府大阪市)の岸の上に、四天王寺が建てられました。
やがて、太子の伯父、崇峻天皇が即位しました。政はすべて太子にまかせました。
百済国の使者として、阿佐という皇子がいらっしゃいました。太子を拝して言いました。
「敬礼救世大悲観世音菩薩。妙教流通東方日国。四十九歳伝灯演説。」
そのとき、太子は眉間から白い光を放ちました。
また、太子は甲斐の国(山梨県)より献上された、黒い子馬で四本の足が白いものに乗り、空に昇って雲に入り、東を指して去りました。調使丸(つかいまる)という者が御馬の右につき、ともに昇りました。人々はこの様子を空を仰いで見ていました。太子は信濃の国(長野県)に至り、三越(越前、越中、越後)をまわり、三日後に帰りました。
(③に続く)
【原文】
【翻訳】 草野真一
【解説】 草野真一
ここに描かれているのは改革推進派の蘇我氏と守旧派の物部氏の内紛である。この争いに蘇我氏が勝利したため日本に仏教が輸入されたというのが通説だが、仏教とはまったく関係のない権力闘争であったとする近年の研究もある。
平城京は長安を模して建造されたし、政治制度(律令制)も大陸からもたらされた。土木や建築も学んだ。仏教もまた、それら新鋭のテクノロジーのひとつと見なされていた可能性は高い。
この節の最後で述べられたのは聖徳太子の甲斐の黒駒伝説である。



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