巻十一第一話③ 前世の経を持ち帰った聖徳太子の話

巻十一

巻11第1話 聖徳太子於此朝始弘仏法語 第一

より続く)

太子の叔母、推古天皇が即位されました。政をすべて太子に任せました。天皇の御前で袈裟を着て、塵尾(払子)をもち、高座に登って、勝鬘経を講じました。多くの名僧に意味を問うと、太子の講義はすばらしいということでした。

推古天皇像 (土佐光芳画・叡福寺)

三日間講じた最後の夜、天から蓮華の雨がふりました。大きさ三尺(約2.7メートル)ほどの花が、地の上三、四寸(9-12センチ)に満ちました。翌朝、天皇はこれをごらんになって不思議がり、おおいに貴んでこの地に寺を建立しました。橘寺です。このときの蓮華はまだこの寺にあります。

木造聖徳太子坐像(橘寺)

また、太子は、小野の妹子という人を使者として、前世で修行されていた隋の衡山をたずねるよう命じました。
赤県(中国)の南に衡山がある。そこに私の同胞があったが、みな死んでしまった。今あるのは三人だけだ。彼らに会って、私の使者だと名乗って、以前私が山にいたころに所持していた法華経一巻を請い、持ち帰りなさい」
妹子はいわれたとおりに門の前に立ちました。一人の小僧があり妹子の来訪を告げました。
「思禅法師(太子の前世)の御使が参りました」
老いた三人の僧が杖をついて出て来て、喜んで妹子に会い、経を取りよせました。妹子は経を得て持ち帰り、太子に奉りました。

また、太子は鵤(いかるが、奈良県生駒郡斑鳩町、法隆寺の近辺)の宮の寝殿のわきに屋を築き、「夢殿」と名付けて、一日に三度沐浴なさいました。翌朝そこを出て、閻浮提(人間世界)の善悪のことを語りました。また、そこで多くの経の疏(しょ、注釈書)をつくりました。

法隆寺東院夢殿

あるとき、太子は七日七夜夢殿にこもったまま出てきませんでした。戸を閉めて、音も聞こえません。多くの人は心配しました。
そのとき、高麗の恵慈法師(朝鮮から来た太子の師)が言いました。
「太子は三昧定に入られたのです。驚かしてはなりません」
八日めの朝、太子は姿を現しました。玉の机の上に、一巻の経がありました。太子は恵慈に語りました。
「これは私が前世で衡山にいたときに持っていた経です。以前、妹子が持って帰って来た経は、私の弟子のものです。三人の老僧は私がしまったところを知らず、異なるものを渡してしまいました。だから私は魂を飛ばして取ってこなくてはならなかったのです」
妹子が持ってきた経と比べると、ない文字が一つ書かれていました。この経も一巻になっていました。黄紙(虫害を防ぐため経は黄色の紙に書かれた)の軸でした。

ある日、百済国より道欣ほか十人の僧が来て、太子に仕えました。
「太子が前の世で衡山にあったとき、法華経をお説きになりました。私たちは廬岳(廬山)の修行者として、その講義を聞きました」

翌年、妹子は再度隋に入り、衡山に行きました。あの三人の老僧のうち、二人は亡くなっていました。生き残ったひとりが語りました。
「去年の秋、あなたの国の太子が、青竜の車に乗り、五百人を随えて、東の方より空を飛んできました。そして古い室内におさめた一巻の経を持って、雲とともに去っていきました」
妹子は知りました。
「太子が夢殿に入って七日七夜出てこなかったのは、これだったのだ」

に続く)

【原文】

巻11第1話 聖徳太子於此朝始弘仏法語 第一
今昔物語集 巻11第1話 聖徳太子於此朝始弘仏法語 第一 今昔、本朝に聖徳太子と申す聖御けり。用明天皇と申ける天皇の、始て親王に御ける時に、穴太部の真人の娘の腹に生せ給へる御子なり。

【翻訳】 草野真一

【解説】 草野真一

聖徳太子は『法華経』『維摩経』『勝鬘経』の講義をおこなったと伝えられる(『日本書紀』に記録がある)。これを書物のかたちにしたのが、『三経義疏』だ。わけても『法華義疏』は、日本最古の毛筆文書として名高い。ただし、これが聖徳太子の筆かどうかは意見のわかれるところとなっている。

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勝鬘経』は女性を主人公とした、わりとめずらしい経典である。ここであえて『勝鬘経』についてふれられているのは、推古天皇が女帝であることと関連があるのかもしれない。

小野妹子が日本と大陸を行ったり来たりしたかのように書かれているが、彼には二度隋にわたった説がある。この話は空間も時間も自在に行き来するファンタジックな物語であるが、その説に基づいている可能性は高い。

五度にわたって派遣された遣隋使のうち、「日出ずる処の天子が日没する処の天子に書をおくる」という挑戦的な国書が送られたのは妹子が選任された二回目のこと。それを届けたのも妹子というのが通説だ。渡した相手は隋の煬帝。黄河と長江を運河で結んじゃうとんでもないスケールの土木工事をおこなった皇帝だ。この運河は現在でも使われている。

煬帝

巻十一
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今昔物語集 現代語訳

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