巻十一第二十二話 伐ろうとすると人が死ぬ古木の話

巻十一(全)

巻11第22話 推古天皇造元元興寺語 第廿二

今は昔、推古天皇という女帝の御代に、この朝に仏法がさかんになり、堂塔を造る人も世に多くありました。天皇も、銅製の丈六(一丈六尺、約4.85メートル。仏像にもっとも適当とされる大きさ)の釈迦の像を、百済国より来れる鳥(鞍作止利)という人に鋳させました。この釈迦仏を安置するために、飛鳥の郷に堂を造らせているとき、堂を建てるべき場所に、いつ生えたかもわからぬ大きな槻(ケヤキ)の古木がありました。
「疾く切り去(の)けて、堂の壇を築きなさい」という宣旨があり、行事官をたててこれをおこなっていたのですが、労務にあたった者はみな大騒ぎして逃げていってしまいました(理由は欠字)。

野間の大ケヤキ(大阪府豊能郡、樹齢千年と推定される。天然記念物)

その後しばらくして、木はかならず伐採すべきと決定され、他の者に伐らせました。最初の人が斧・(たつき)を二、三度ほど打ち立てただけで死んでしまいましたから、代わりの人もおそるおそる近づいて伐っていましたが、前と同じように突然死んでしまいました。ともに働いていた者たちは、罰を受けるにもかかわらず、これを見て、斧鐇を投げ棄てて逃げ去ってしまいました。
以降はみな、「どんな罰が下ろうとも、あの木の近くに寄るのはごめんだ。命があればこそ公に仕えられる」と言って、ふるえあがってしまいました。

ある僧が思いました。
「どうしてこの木を伐ろうとするには人は死ぬのか。理由を知りたい」
強い雨がすきまなく降る夜、僧はみずから蓑笠をつけて、旅の人が木蔭で雨宿りしているように装い、木に近づいて、木の空(うつろ)の傍にひそかに忍んでいました。

夜半になるころ、木の空の上の方から、多くの人が語る声が聞こえました。
「たびたび木を伐りに寄り来る者がある。伐らせないために、みな蹴殺した。とはいえ、最終的には伐られてしまうだろう」
「そのために毎回蹴殺している。世に命を惜しまぬ者はない。伐ろうとする者はなくなるだろう」
「麻苧でできた注連(しめなわ)をめぐらせ、中臣祓をあげ、杣立の人(木こり)に墨縄をかけて伐らせたならば、われわれの術は終わってしまう」
多くの声が「本当にそのとおりだ」と言い、嘆きの言葉を語るうちに、鳥が鳴くころになり、声はしなくなりました。

「これはよいことを聞いた」
僧は抜足でその場を去りました。その後、これを奏上すると、天皇は感動し、大いに喜んで、僧の言ったとおり、木に麻苧の注連をひきまわし、根元に米を散じ幣を奉り、中臣祓を読ませて、杣立の者たちに墨縄を懸けて伐らせると、一人も死ぬ者はありませんでした。

木が傾いたとき、山鳥ほどの大きさの鳥が五、六羽、木から飛び立ちました。その後、木は倒れました。木は御堂の壇の材となりました。鳥たちは南の方の山辺に去ったようでした。天皇はこれを聞くと、鳥をあわれんで、すぐに社をつくって鳥に給いました。現在も神社として、龍海寺の南にあります(場所不詳)。

ヤマドリ

やがて、堂が完成しました。供養の日、朝方に仏像を入れようとすると、仏は大きく、堂の南の戸は狭く、もう一、二寸(約3~6センチ)広かったとしても、入れることはできません。仏像は広さも高さも三尺(90センチ)ばかり大きかったので、どうしようもありませんでした。
「壁を壊して入れるべきだ。ほかに手はない」
人々は口々に言い合いました。

そのとき、齢八十ほどの杖をついた老人が現れて言いました。
「退け退け。みな退け。ただ翁がいうとおりにしなさい」
仏の下あごを引き回すようにして、御頭の方を前にして入れると、安らかに入れて祀ることができました。その後、「あの老人は誰だ」と問い尋ねましたが、掻き消えるようにいなくなっており、どこに行ったかもわかりませんでした。人々は驚き怪しみ、探せという命があったこともあって、東西を走り廻りましたが、知る者はありませんでした。化人(化身)だったのだとみな悟りました。

その後、供養がありました。そのとき、仏の眉間より白い光が出て、中の戸から出て、堂の上を蓋のように覆いました。「これは奇跡だ」人々は貴び合いました。

供養の後は、この寺の事を聖徳太子が引き継ぎました。仏法はおおいにさかんになり、とどこおりなく行われることになりました。もとの元興寺というのはこの寺です。仏は今もあり、心ある人は、必ず詣で礼奉るべき仏だと語り伝えられています。

【原文】

巻11第22話 推古天皇造元元興寺語 第廿二
今昔物語集 巻11第22話 推古天皇造元元興寺語 第廿二 今昔、推古天皇と申す女帝の御代に、此の朝に仏法盛に発て、堂塔を造る人、世に多かり。天皇も、銅を以て丈六の釈迦の像を、百済国より来れる□□□と云ふ人を以て鋳しめ給て、飛鳥の郷に堂を起て、此の釈迦仏を安置せしめ給はむとし、先づ堂を造らる間、堂を起つべき所に、当に...

【翻訳】 柴崎陽子

【校正】 柴崎陽子・草野真一

【解説】 草野真一

「もとの元興寺」という表現にあきらかなように、『今昔物語集』編纂当時(平安末期)、すでに元興寺は二種存在していた。ひとつは現在「飛鳥寺」と呼ばれることが多い寺院(奈良県高市郡明日香村)。このエピソードにも記載された仏師鳥による釈迦如来像は、現在でもここで拝観できる。

釈迦如来像(飛鳥大仏)

平城遷都の際、元興寺は現在の奈良市に移転した。規模は小さくなっているが、こちらも存続している。

巻十一第十五話 インドから日本へわたった仏像の話(元興寺の由来)
巻11第15話 聖武天皇始造元興寺語 第十五 今は昔、元明天皇は奈良の都に元興寺を建立しました。堂塔を建て、金堂には□丈の弥勒像を安置しました。この弥勒は日本で造った仏ではありませんでした。 昔、東天竺に生天子国という国があ...
巻十七第三十六話 女が髪に猪の油をつけていることを見抜いた行基の話
巻17第36話 文殊生行基見女人悪給語 第卅六今は昔、行基菩薩という聖がありました。五台山に住むといわれる文殊菩薩が、わたしたち衆生を利益するために、行基として生まれなさったのです。而るに、古京(奈良)の元興寺の村に、法会を開く人があ...

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました