巻12第2話 遠江国丹生茅上起塔語 第二
今は昔、聖武天皇の御代に、遠江の国磐田の郡(静岡県磐田市)に、丹生の直茅上(にふのあたいちかみ)という人がありました。心を発し、塔を造る願を立てました。しかし、公私ともに忙しく、長くその願をとげることができませんでした。このことをかぎりなく思い歎いていました。
思いがけないことに、茅上の妻が六十三歳で懐妊しました。茅上や家の人が不思議がり、心を悩ましているうちに、月は満ち女子が生まれました。安らかな出産でした。茅上はこれを喜びました。生まれた子は、左手をにぎりしめ、決して開くことがありませんでした。父母はよくあることだと思いながら開かせようとしましたが、いよいよ固くにぎり、開きません。父母はこれをかぎりなく怪しみました。
父は母に言いました。
「おまえは子どもを産むような齢でないのに懐妊し、産んだ。だからこのように手を開けない身体の子が産まれたのだ。恥ずべきことだ。しかし、おまえも私に縁があるから、私の子を産んだのだろう」
体が不自由な子であっても、父母はにくみ捨てたりすることなく、大切に育てました。やがて、娘は成長して、比べるものがないほど美しく、端正に育ちました。
児が七歳になったとき、はじめて手を開き、父母に告げました。父母が喜んでこれを見ると、開いた手の中に、仏の舎利(遺骨)が二粒ありました。父母は思いました。
「この児は手に仏舎利をにぎって生まれた。ただの人ではない」
いよいよ大事に育て、多くの人に舎利を見せて、手をにぎって生まれたことを語りました。聞く人はみな、このことを貴び讃めました。これは世に広まり、国司も郡司もおおいに貴びました。
その後、茅上は念願だった塔を建てようとしましたが、力足らず、信者を集めて寄進ををあおぎ、地元の磐田寺の内に五重の塔を建てました。娘の舎利はその内に安置しました。
塔の供養が終わって幾程を経ずして、児は死にました。父母は恋い悲しみましたが、どうしようもないことでした。
ある智恵者が父母に告げました。
「これは、遂げられない願を遂げさせるために、仏が娘となって、舎利を持って生まれてきたのだろう。塔を建て供養が終わって、願が遂げられると姿を消したのだ」
母が出産の年齢でないのに生まれ、舎利をにぎって生まれたのは、そうなのでしょう。その塔は今もあります。磐田寺にある塔とはこれであると語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 柴崎陽子
【校正】 柴崎陽子・草野真一
【解説】 柴崎陽子
磐田寺と呼ばれる寺は現存しないようです。
コメント
【解説】の部分ですが、釈迦が自分の遺体(遺骨)を崇拝することは無駄だからよしなさい、仏塔崇拝などは在家信者に任せなさいと弟子に言い残した、という話はよく聞きますが間違った解釈です。リンクが貼られている-『大般涅槃経』における比丘と遺骨に関する儀礼–出家仏教に関する古くからの誤解-という論文もまさにそのことを述べています
ご指摘ありがとうございます。
該当の部分は削除いたしました。
リンク
『大般涅槃経』における比丘と遺骨に関する儀礼
https://otani.repo.nii.ac.jp/records/1245