巻12第20話 薬師寺食堂焼不焼金堂語 第二十
今は昔、□年□月□日の夜、薬師寺の食堂(じきどう)で火事が起こりました。火は南にむかっていたために、食堂の南にあった講堂・金堂はたちまち焼け落ちました。寺の僧たちはこれを悲しみ、泣く泣くわめきたてましたが、力は及びません。天智天皇が建造されてから四百余年、未だこのような火事はなかったのに、たちまち焼失していました。寺の僧たちが泣きまどうのも当然でしょう。
火は食堂をなめつくし、すべてを焼きつくしたと思っていたのに、夜が徐々に明けて煙が白く見えるようになったころ、大きな黒い煙が三筋ほど、火の跡の内から高く登って見えました。夜がすっかり明けてから、人々が不思議がって集まって見ると、煙ではなく、金堂と二つの塔に、無数の鳩が集まって飛び回り、火を寄せず、金堂・講堂を守っていました。希有の事の中の希有の事です。霊験あらたかなこの寺の薬師仏が示し給うたことでしょう。人みな、かぎりなく貴び悲しみました。
この寺では、南の大門の前に、昔から八幡大菩薩をまつり、寺の鎮守としていました。八幡神が寺の仏法を守護してくださったために、焼けなかったのでしょう。だから(八幡の使いである)鳩が多く集まり、飛び廻って、火を寄せつけなかったのです。
それから三年が経ちました。食堂や四面の廻廊・大門・中門・鐘楼などは、みな元のように造り建てられました。
□年□月□日、にわかに異常に強い飆(つじかぜ、つむじ風)が吹きました。金堂の上層は吹き上げられ、空に巻き上がり、講堂の前の庭に落ちました。材木一本・瓦一枚でも無事だったものはなかったでしょう。しかし、瓦は一枚も割れず、木の一支(ひとえだ)も折れることはなかったのです。みな元のように修理することができました。希有のことです。これもまた、薬師仏の霊験によるものです。
あるとき、南大門の天井を組むための材木を、吉野の杣(そま、木こり)に三百余つくらせ、川から上げようとしたとき、国司の藤原義忠朝臣という人があらわれて、内裏を建造する材料として奪っていきました。
「これは薬師寺の山から、寺の修理に使うために運んだ木です」と申しましたが、国司はききいれません。川から上げようというとき、寺の別当(管理官)、観恩が国司に会って懇願しましたが、ついに許されませんでした。
寺の僧たちは、南大門の前の八幡の宝前で、百日間の仁王講をおこない、このことを祈請しました。講を七、八十日ばかりおこなったころ、国司は寺の東の大門の前に、三百本ばかり堀河(秋篠川)より引き上げて積みあげました。そこから泉河の港に運び、京に入れるためです。しかし、国司は金峰山に詣でて帰るとき吉野川に落ち、死んでしまいました。寺の僧たちはこれを聞いて喜びました。まるで寺から京に運ぶように、東の大門に積み置いた後で、国司が亡くなったからです。人足はみな、寺の内にひきいれられました。木を積み上げた上に、 いつの間にか鳩が集まって座っていたからです。これもまた希有のことでした。
寺の僧たちはこれを見て思いました。
「仁王講の霊験があったのだ」
「国司が溺死したのは、八幡様の罰を受けたためだ」
薬師寺金堂の内陣は、人が立ち入ることを禁じられていました。堂の管理をしている俗(僧でない)三人が、身を浄め交代に十日ずつ(上旬・中旬・下旬で一人ずつ)入ることができるのみでした。たとえ一生不犯の僧であっても、入ることを許されていませんでした。
昔、浄行(不犯)の僧が、「私は身・口・意の三業において犯すところはない。なぜ入れないのか」と考えて入ろうとすると、とつぜん扉が閉まり入ることができずに、帰るしかありませんでした。
「薬師の像には世にありがたい霊験がある」
そう語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 柴崎陽子
【校正】 柴崎陽子・草野真一
【解説】 草野真一
『扶桑略記』に、薬師寺の火災は973年の2月27日、大風は989年の8月13日と記録がある。
八幡神社で鳩を神鳥とするのは全国的なもので、なかには狛犬ならぬ狛鳩を置く神社もあるそうだ。

本文に「天智天皇が建造して四百年」とあるが、薬師寺の創立発願は天武天皇であり、四百年にはまったく根拠がない。












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