巻12第3話 於山階寺行維摩会語 第三
今は昔、山階寺(興福寺の前身)で維摩会を行っていました。大織冠内大臣(藤原鎌足)の御忌日(命日)です。かの大織冠は、 もとの姓を中臣といい、天智天皇の御代に、藤原の姓を給わり、内大臣となりました。命日は十月十六日でしたから、十日よりはじめて七日間、この法会を行いました。この会は、この国でおこなわれている多くの講会の中でもっとも優れたものであり、震旦(中国)にもその名がとどろいいております。
この法会は、昔、大織冠が、山城の国宇治の郡の山階の郷末原(京都市東山区)の家で病み、長く煩いつき、公に出仕できなかったときにはじまりました。
そのとき、百済国より来た尼がありました。名を法明といいます。大織冠は尼に問いました。
「おまえの国に、こういう病にかかる人はあるのか」
「あります」
「どうやって治すのだ」
「その病は薬の力では治りません。医師にはどうしようもないのです。ただ、維摩居士の像をつくり、その御前で『維摩経』を読誦したなら、癒えるでしょう」
大織冠はこれを聞いて、すぐに家の内に堂を建て、維摩居士の像をまつり、維摩経を講義させました。講師はその尼としました。はじめの日、問疾品(品は章というほどの意味)の講を聞くと、大織冠の病はたちまちに治癒しました。おおいに喜び、尼を拝し、翌年より毎年、維摩会をおこなっていましたが、大織冠が亡くなってしまうと、会もおこなわれなくなりました。
大織冠の御子、淡海公(藤原不比等)が後を継ぎました。年若くして父を失ったため、この会を知りませんでした。階位があがり大臣となったとき、淡海公は手を病みました。その占うと、祖(おや)の時代の法事をおこなわなくなった祟りであると伝えられました。
改めて『維摩経』を講義を再開し、やんごとなき智者の僧を講師として、あちこちで行いました。ついにはあの山階の末原の家を奈良に移し、奈良に建てたけれども、山階寺と呼びました。
法会はその山階寺で開かれました。承和元年(834年)からはじまり、永く山階寺でおこなわれました。朝廷の公事として、藤原氏の弁官をたて勅使を奈良に派遣して続けられました。
諸寺・諸宗の学者をよりすぐり、この会の講師としました。そのほうびとして僧綱に任ぜられるのが例となりました。法会の聴衆にも諸寺・諸宗の学者をたてました。
また、藤原氏の上達部よりはじめ、五位に至るまで、衾(夜具)を縫い、この会の僧に施しました。会の儀式のいかめしさ、講経論議のすばらしさは、浄名(維摩)の居室と異なりませんでした。仏供・僧供(食膳)は、みな天の膳をまね、ほかでは見ることのできない豪華なものでした。 本朝(わが国)に仏法の寿命をつなぎ、王法の礼儀を敬うことは、ただこの法会にかぎられていました。公も私も、これを貴ぶことが大事であると語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 柴崎陽子
【校正】 柴崎陽子・草野真一
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