巻12第30話 尼願西所持法花経不焼給語 第三十
今は昔、願西という尼がありました。横川の源信僧都の姉です。
この尼は、 もとより心が柔らかく暖かで、怒りや恨みを抱くことはありませんでした。女ではありますが、智恵をもち因果を知っていました。出家した後は戒律を破ることなく、ひたすらに善心を持っていました。また、法華経を読誦して、その意味をよく理解していました。生きている間、数万遍、法華経を読みました。念仏の功は積もり、数えきれないほどでした。
この尼の貴さを夢に見て、訪ねて来てそれを告げる人が世に多くありました。尼は身を隠すばかりの着物を着ていました(質素な身なりをしていた)。食ふ物は、ただ命をつなぐばかりのものを食べていました。世の人は彼女を「安養の尼君」と呼び、かぎりなく貴びました。尼が受持する法華経は霊験あらたかで、病に煩う人がこれをお迎えすると、必ずその霊験があらわれるのでした。
而る間、山階寺(興福寺)に寿蓮(じゅれん)威儀師(儀式を行う役)がありました。その妻は邪気(もののけ)に当たり、重く煩い、数ヶ月も辛苦悩乱していました。様々に祈祷しましたが、その験はありませんでした。
そんなとき、「安養の尼君が年来読誦されている法華経は、霊験あらたかである」と聞きました。その経を迎え、手箱に入れて病者の枕元に置きました。その徳によって、病は癒えました。これをかぎりなく貴び、しばらく枕元に置きました。
ある日の夜半ごろ、その家に火が出ました。人みなあわてて、財を運び出すのに夢中で、この経を忘れてしまいました。やがて、屋敷はすべて焼け、昼になりました。経を取り出さなかったことを歎きましたが、どうしようもありませんでした。
翌日、釘などの金物を拾い集めようと、人々が集まりました。焼け跡を見る。と、寝所のあった場所に何か盛り上がっているものがあります。あやしんで灰を掻き去けて見ると、経八巻(法華経は八巻)がありました。経を入れた手箱は焼けていましたが、経はまったくこげたところもなく、灰の中から掻き出されました。人々は「不思議なこともあるものだ」と言い合い、貴びました。里の人はこの話を聞いて、競うようにやってきてこれを拝みました。これを伝え聞いて、山階寺には多くの僧がやってきて、拝み貴びました。
その後、恐れを成して、経を尼君のもとに返し送りました。奇異で貴いことです。
「尼君は、ただの人ではなかった」と、人々は言い合いました。たいへんに貴い聖(ひじり)であったと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 柴崎陽子
【校正】 柴崎陽子・草野真一










コメント