巻12第5話 於薬師寺行最勝会語 第五
今は昔、天智天皇が薬師寺を建て、仏法がさかんになりました。
淳和天皇の御代に、中納言従三位兼行中務卿直世王という人がありました。才があり、心に悟りあり、内外の道(仏典と俗典)に通じていました。天長七年(830年)、天皇に奏上しました。
「薬師寺で、毎年七日間の法会を行い、天下を栄えさせ、帝王の永遠を祈るため、最勝王経を講じるとよいでしょう」
帝王はおっしゃいました。
「そのとおりだ。すみやかに行い、代々の帝王の子孫を檀越(檀家)としよう」
その年の三月七日から、会がはじめられました。維摩会・御斎会の講師を招き、聴衆には、諸寺諸宗の学者をえらびました。講経も論議も、維摩会のようでした。朝廷からは勅使が派遣され、講師や読師、聴衆に布施がおこなわれました。僧供(僧への寄進)はすべて寺に寄せられました。
「この寺の檀越は、代々の天皇の子孫とする」
そう宣旨があったので、源の姓を給わった御子の子孫を檀越としました。源氏の上臈(身分の高い者)が任じられました。この会の勅使にも、源氏がもちいられました。
維摩会・御斎会、そしてこの最勝会を三会と呼びます。日本国の大きな会はこの三会です。同じ人が三会の講師をつとめました。已講(いごう)に任じられ、三会の講師をつとめたことで僧綱となりました。たいへんすぐれた法会であると語り伝えられています。
【原文】
巻12第5話 於薬師寺行最勝会語 第五
今昔物語集 巻12第5話 於薬師寺行最勝会語 第五 今昔、天智天皇、薬師寺を建給て後、仏法盛也。 而る間、淳和天皇の御代に、中納言従三位兼行中務卿直世の王と云ふ人有り。身に才有り、心に悟有て、内外の道に達(いた)る。然れば、其の人、天長七年と云ふ年、天皇に奏して云く、「彼の薬師寺にして、年毎に七日を限て法会を行ひ...
【翻訳】 柴崎陽子
【校正】 柴崎陽子・草野真一
【解説】 柴崎陽子
源氏はかつて皇族であったが、姓を賜り臣下となった家系であった(臣籍降下)。同じ立場だったのが平氏である。
最勝会は現在でも薬師寺の大切な行事としてとりおこなわれている。本文にある「三会」のうち、御斎会のみが応仁の乱のころ中絶した。
最勝会 - 奈良薬師寺 公式サイト|Yakushiji Temple Official Web Site
最勝会は、復元された古代の法衣に身を包んだ僧侶による声明や論義、雅楽の音色に合わせた読経、衣冠束帯の装束を着た勅使役によるお香の奉納など、古代の雰囲気が漂う雅やかな法会です。
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