巻12第6話 於山階寺行涅槃会語 第六
今は昔、山階寺(興福寺)に涅槃会という法会(法要)があります。二月の十五日は、釈迦如来が涅槃に入り給うた日です。僧たちは言いました。
「昔の沙羅林(沙羅双樹の林)の様子を思えば、心を持たない草木すら、皆それをを知り恋慕の思いを抱いたという。心あり悟りある人は、釈迦大師の恩徳を報じ奉らずにはいられないはずだ」
かの寺の本尊は釈迦如来でした。その御前で二月十五日に、一日の法会を行うことになりました。四色の(僧衣をまとった)羅漢は威儀を調え、三部(三種)の伎楽は音を奏でました。
この会の儀式は初め、少しおろそかなところがありました。
尾張の国(愛知県)の書生(書記、下級官吏)が、国司の不正を見て、心を仏法に寄せ、頭を剃って本国を去ろうと考えていました、山階寺の善殊僧正という人が、要請を受けてかの国に至ったとき、書生は志をもって僧正にあい、本国を棄てて山階寺に赴き、頭を剃って衣を染め、僧正の弟子となりました。名を寿広といいます。もともと心が浄く、悟り賢い人でしたが、出家してからは一心に正教の道を学び、音楽に通じました。世の人は寿広を敬い貴んで、和尚と呼ぶようになりました。
寿広はさらに涅槃会の儀式を荘厳にし、色衆(役僧)をそろえ、楽器をそえ、よりおごそかなものとしました。
その翌日、尾張の国の熱田明神が童子に仮託して、寿広和尚に言いました。
「おまえは私の国の者である。今、貴き会を開くと聞いて、私は昨日、聴聞のためにはるかに来た。しかし、会の中(奈良)はまさに仏が集う場所だ。奈良坂の口には、梵王・帝釈・四大天王(仏経の守護神)が護っている。そのため、私は近寄ることもできず、聴聞することができなかった。歎かわしいことだ。私はどうしたらこの会を聴聞することができるのだろう」
寿広はこれを聞くと、明神をあわれんで言いました。
「昨日、明神がいらしゃっていたのを、私はまったく知りませんでした。では、熱田の明神のために、特別にふたたびこの会を行いましょう」
歌舞がおこなわれる間、法華経百部を読誦して、前日のように法会を行いました。熱田の明神はこれを聴聞し、「□は疑いないことだ」と思いました。それからというもの、法華経を書写してこれを講じることが二日にわたって行われるようになりました。これを法華会と呼び、今にいたるまで続けられています。
心あらん人は、涅槃会を聴聞すべきです。この世の人はみな、釈迦の四部の弟子(弟子の一部)です。ひたすらに入滅の日を思い、この会に参るならば、罪業を滅して浄土に生れること疑いありません。
また、広くこう言い伝えられています。
「人がこの世から冥途に至るとき、閻魔王や冥官がこうたずねる。
『おまえは山階寺の涅槃会を礼したか否か』
涅槃会に参った道俗男女はみな、この会の花をとり、冥途の験にする」
虚実はわかりませんが、人の語り伝えるところです。この会の儀式・作法・舞楽の興は美しく、他では見られないものです。「極楽とはこのようなものだ」と語る人さえあります。日本第一の法会だと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 柴崎陽子
【校正】 柴崎陽子・草野真一
【解説】 草野真一
熱田明神より興福寺のほうが圧倒的に格上だという話。明神が会に入れないのは、仏の尊格が神よりずっと高いからだ。土着の神より仏のほうが貴いという価値観はこの時代一般的なものだった。
明治以降ではこれが逆転し、戦後に同格(もしくはまったく別のもの)とされるようになる。栄枯盛衰。
興福寺は現在でも涅槃会をおこなっており、その様子は動画で見ることができる。
涅槃会は「釈迦が入滅した日(命日)」におこなわれるが、そこで読誦される法華経は「釈迦は死んでおらず永遠に生きている。方便でそれを演じたのだ」というお経で、じつはとっても矛盾している。僧の中には、それに気づいていた者もいただろうが、おそらく問題となることはなかった。
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