巻14第11話 天王寺為八講於法隆寺写太子疏語 第十一
今は昔、天王寺(四天王寺、大阪府大阪市)の別当(寺の長官、最高位)である定基が僧都になり、御堂(藤原道長)のために法華八講をはじめ、法華経を講じようとしました。このとき、藤原公則という、河内守として道長に長く仕えていた者が、八講の料として河内の田を寄進しました。以来、それを八講の料にあてたので、別当は絶やさずこれをおこないました。
斉祇僧都という人が別当にしてあるとき、言いました。
「聖徳太子がつくった一巻の疏(法華義疏、法華経の解説書)がある。この寺で行う八講には、それを使うとよい。その疏は法隆寺の東の院、太子が住まれていたところ(夢殿)に、さまざまな太子の御物とともにある。義疏は太子が自ら御手で書かれたものであるから、外に持ち出すことはできないが、この寺の上位の僧に書写のための僧をそえて派遣し、書写をおこなうといい」
そこで、上位の僧は書写の上手な僧をひきつれ、法隆寺の南大門で来意を告げさせました。
「こういう理由で天王寺より参りました」
しばらくすると、みごとな袈裟をつけた僧が十人ほど、香炉を捧げて来て、天王寺の僧たちを迎え入れました。天王寺の僧たちはおかしいなと感じつつ、この寺の僧たちに随いました(最上の袈裟をつけた僧が香炉を持って現れるとは思っていなかった)。夢殿の北にある屋があらかじめ用意されていました。
寺の僧はかの疏を取り出し、書写させて言いました。
「昨晩、この寺の老僧の夢に、『天王寺より僧たちが来て、太子の作り給うた一巻の疏(上宮王の疏)を書写したいと言うだろう。天王寺の八講に講ずるためだ。すみやかに迎え入れ、疏を惜しまずに取り出して、書写させるがいい』とお告げを得た。『では、法服を調えて待ってみましょう』と答え、待っていると、夢に違わず、このようにやってきた。太子のお告げだったのだ」
寺僧は泣きました。天王寺より来た僧たちも、これを聞いてかぎりなく泣き貴びました。
こうして、天王寺の僧たちは、疏を書写しました。法隆寺の僧の中にも手伝う者が多数ありましたので、それぞれが一、二枚ずつ書いただけで書き終わり、天王寺に帰りました。それからはこの疏をもって八講をおこなうようになりました。
「この八講は太子の夢に示し給うた、きわめて貴いものである」と人は言っています。十月におこなっているのも趣ぶかいことです。心ある人は、参って聴講すべきであると語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
【解説】 草野真一
『法華義疏』は『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』ともに『三経義疏』と呼ばれ、貴ばれてきた。
わけても『法華義疏』は聖徳太子の真筆とされるものが残っており、日本最古の肉筆と呼ばれている。ただし、近年の研究ではこれを疑問視する声も大きく、太子が書いたものではないとする意見も多い。さみしい話だ。皇室御物となっている。
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