巻十五第四十二話 義孝の少将の往生

巻十五

巻15第42話 義孝小将往生語

今は昔、一条の摂政殿(藤原伊尹)と申す人がおいでになりました。
その御子に、兄は右近少将(うこんのしょうしょう)・挙賢(たかかた)といい、弟は左近少将(さこんのしょうしょう)・義孝(よしたか)という兄弟がありました。
義孝の少将は幼い頃から道心があり、深く仏法を信じて、悪業をつくらず、魚鳥も食べませんでした。

藤原義孝(小倉百人一首より)

あるとき、殿上人が大勢集まっている席に、この少将を呼んだので、行ってみると、みなで物を食ったり、酒を飲んだりして遊んでいます。
膳の上には、鮒(ふな)の卵であえた鮒のなますがあります。
義孝の少将はこれを見て、食べようともせず、「母の肉に子をあえたものを食べるとは、なんとまあ」と言って、目に涙を浮かべて立ち去ったのを人びとは見て、なますの味わいもすっかり失せてしまいました。
このように、魚鳥を食べることはありませんでした。
ましてや、自ら生き物を殺すことなど絶対にしませんでした。
ただ、政務の間には常に法華経を誦(ず)し、弥陀(みだ)の念仏を唱えていました。

法華経の写本 東京国立博物館蔵(法隆寺献納宝物)平安時代

さて、天延(てんえん)二年(974)という年の秋のこと、世間では疱瘡(ほうそう・天然痘)という病気が流行し、ひどく騒然としていましたが、ある有明の月のたいそう美しい夜、弘徽殿(こきでん)の細殿(ほそどの・細長い廂の間にある局)に女房が二、三人ほど坐って雑談をしていると、義孝の少将が□□[やわら]かな直衣(のうし)姿で、殿上間(てんじょうのま)の方から来たのであろうか、細殿にきて、その女房たちに話しかける様子は本当に「よしありげ」に見えて、「ほんのちょっとしたことを言うにつけても、ほんに道心深い方だなあ」と、思われるほどでありました。
夜もしだいにふけていったので、少将はそこから北へ歩いて行きました。
お供には、小舎人童(こどねりわらわ)がただ一人従っています。
内裏外郭の北の朔平門(さくへいもん)、近衛の詰所の北の陣のあたりを通り過ぎようとして、歩きながら法華経の方便品(ほうべんぼん)の比丘偈(びくげ)をたいそう尊げに誦しています。

細殿にいる女房たちはこれを聞き、「この方は、本当に道心深い方でおありのようだ。いったい、どこへいらっしゃるのだろう」と思い、警固の侍を呼んで、「この少将がどこに行かれるか、あとをつきとめてきなさい」と、つかわします。
この侍が少将のあとをつけて行くと、少将は上東門(じょうとうもん)を出て、大宮通りを北にゆき、世尊寺(せそんじ)の東の門から中へ入り、東の台の前にある紅梅の木の下に立ち、西に向かって、「南無西方極楽阿弥陀仏(なむさいほうごくらくあみだぶつ)、命終決定往生極楽(みょうじょうけつじょうおうじょうごくらく)」と唱えて礼拝し、それから濡れ縁に上がりました。
侍はこれを見て、小舎人童のそばに寄り、「いつもこのように礼拝なさるのですか」と訊けば、童は、「人が見ていないときは、いつもこのように礼拝なさいます」と答えました。
侍が帰ってきて、このことを報告すると、女房たちはこれを聞いて、非常に感激したのでした。

ところが、その次の日から少将は疱瘡を患い、「参内(さんだい)できない」と言っている内に、兄の挙賢の少将も同じ病気にかかり、兄弟が自邸の寝殿の西と東に病臥することになりました。
母はその二人の間にいて、あちらに行き、こちらに行って看病なさいました。
兄の少将は、たった三日のうちに重態になって死んでしまったので、枕を北向きに変えたりして、普通の死者のように葬りました。
そこで母は、弟の少将が病臥している方に行って、涙を流して嘆き悲しみました。
その弟の少将の病気もまた非常に重いとご覧になりましたが、少将は声高に方便品を誦しています。

半ばほど誦したとき、死んでしまいました。
その間、なんともいえない芳しい香りが病床のあたりに満ち満ちていました。
そこで、「一度に、二人のお子様を失って、このような悲しい目を見なさったお母様のご心中は、どのようであろう。もし、お父君の摂政殿がご存命であったら、どれほどお嘆きなさろうか」と、人びとは言い合いました。

その後、三日経って、母君が夢を見るに、兄の少将が中門(ちゅうもん・寝殿造の玄関)のあたりに立って、ひどく泣いています。
母が台の隅にいて、これを見て、「どうして家にお入りにならずに、そのようにお泣きになるのです」と、お尋ねなさると、少将は、「おそばに参ろうと思いますが、参ることができないのです。私は閻魔王(えんまおう)の御前で、どういう罪に当たるか調べられましたが、『この者は、まだ当分、寿命がある。さっそく放免せよ』と言うことで、放免されたので帰ってきましたのに、私が死ぬや急いで枕を北向きに変えられたので、魂の入る所がなくなって、生き返ることができず、迷い歩いているのです。情けないことをしてくださいましたね」と、言って恨み顔をして泣いています。
このような夢を見て、目が覚めました。
夢さめてのちの母のお気持ちは、どのようなものであったでしょうか。

また当時、右近中将(うこんのちゅうじょう)・藤原高遠(ふじわらのたかとお)という人がいました。
義孝の少将とは親友でありましたところ、夢で少将に会いました。
高遠の中将が少将を見て非常に嬉しく思い、「あなたは、どこにおいでですか」と、尋ねると、少将は、「昔は蓬莱(ほうらい)の宮の裏の月に契り、今は極楽界の中の風に遊ぶ(生前は宮中にあって月のもとで親交を結んだが、現在は極楽浄土の風に吹かれて自由無げの境地にある)」と詩句で答えて、かき消すように見えなくなった、とこのような夢を見て、目が覚めました。
その後、高遠の中将はこの詩を書きつけておきました。
この話を聞く人は、「道心ある人は、後世のことに期待がもてることだ」と言って、ほめ尊んだのでした。

少将は在世中も学識豊かで、詩を上手に作っていたので、夢の中で作った詩もすぐれたものでありました。
その夢で、「極楽に遊ぶ」と告げた上、また臨終に往生の瑞相(ずいそう)を示したからには、疑いなく往生を遂げた人である――とこう語り伝えているということです。

【原文】

巻15第42話 義孝少将往生語 第四十二
今昔物語集 巻15第42話 義孝少将往生語 第四十二 今昔、一条の摂政殿と申す人御けり。其の御子に、兄は右近少将挙賢と云ふ、弟をば左近少将義孝と云けり。義孝の少将は幼かりける時より道心有て、深く仏法を信じて悪業を造らず、魚鳥を食はず。

【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柳瀬照美

藤原義孝の道心を伝える日常の行いと往生時の逸話をしるした話で、本話より第47話までは在家の男子の往生譚が列記される。

本文中の空欄は、漢字表記を意識した欠字。
義孝が内裏から出た朔平門(さくへいもん)は、主に女官らの通用門として使われていた。『平治物語絵巻』で、二条天皇が女房に変装して内裏から脱出を図ろうとして反乱兵に車を止められ尋問されるのは、この門前での場面である。

義孝が唱えていた『法華経』は、天台宗(のちの日蓮宗も)の根本聖典であり、「諸経の王」とも呼ばれ、古来、日本で最も親しまれた大乗経典。8巻28品あり、方便品(ほうべんぼん)はその第二品で、義孝が唱えたのは、西方極楽浄土の阿弥陀仏に帰依し、死後、必ず極楽浄土に往生するよう祈念した句。
また、死後、兄が家へ入れず、恨み言を言うエピソードは『大鏡』では弟の義孝の話とされている。

藤原義孝(ふじわらのよしたか・954-974)は、摂政太政大臣・藤原伊尹(ふじわらのこれまさ、または、これただ・924-972)と代明親王の娘・惠子女王の子。
信仰心が幼少時より篤く、正五位下に叙せられた年の11月に父・伊尹が没したときには出家しようとしたが、この年に生まれたばかりの息子・のちの行成を見捨てることが出来ず、思い留まった。けれども、2年後に当時、流行した疱瘡に罹って21歳で没した。

『大鏡』によれば、朝に挙賢が、夕方に義孝が亡くなったという。
さらに『大鏡』は、その道心の深さを語るだけでなく、義孝の容姿がいかに美しかったかを伝えている。

『世尊寺の月』(月岡芳年『月百姿』)藤原義孝

〈『今昔物語集』関連説話〉
藤原義孝:巻24「藤原義孝の朝臣死にて後和歌を読む語第三十九」
息子・藤原行成:巻24「円融院の御葬送の夜朝光の卿和歌を読む語第四十」

【参考文献】
小学館 日本古典文学全集22『今昔物語集二』
『大鏡』佐藤謙三校注、角川書店

巻十五
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今昔物語集 現代語訳

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