巻17第11話 駿河国富士神主帰依地蔵語 第十一
今は昔、駿河の国富士の宮(浅間神社)に神主がありました。和気光時(わけのみつとき)といいました。妻とともに、深く地蔵菩薩を信仰していました。しかし、光時は神主だったので、僧と出会っても馬を下りませんでした。これは古より宮の慣例でした。
ある日、二十四日(地蔵の縁日)に家を出て、馬に乗って道を行くと、十七、八歳ほどの僧が歩いてきました。光時は、慣例にしたがい、下馬せずに馬に乗ったまま僧に話しかけると、僧は忽然と消えてしまいました。光時は恐れ怪しみ、家に帰りました。
その夜、光時は夢を見ました。
姿かたちの端正な小僧が言います。
「今日、道でおまえが話しかけたのは、地蔵菩薩である。おまえは深く私を信仰しているようだが、道で僧に会っても下馬しない。僧はみな、十方(八方向に上下をくわえたすべての方向)の諸仏の福のみなもとである。これを供養する人は、無量の功徳を得て、無量の福徳を得る。まして、地蔵は僧の形なのだ。なぜ僧を軽んじるのか。これから後は、決して馬に乗りながら僧に話しかけてはならない」
この後、光時は涙を流して咎(とが)を悔い、位の上下を論ぜず、僧が遠くに見えれば、下馬して一礼したと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】
草野真一
【解説】
草野真一
神道と仏教
この物語は僧より神主のほうが上であるという身分制度にたいして、異をとなえている。神道にたいする仏教の優位を語るのが、地蔵菩薩という日本独自のほとけであるという構造も、(事情を知った上でみると)とてもおもしろい。
平安時代(『今昔物語集』の成立した時代)こそ神主は僧より上だったかもしれないが、その後地位の逆転があっただろうことは、江戸時代のありさまを見ればわかる。たぶん鎌倉新仏教の成立がおおいに関係しているだろう。
神社合祀と廃仏毀釈
今、大きな神社はたいがい、境内に複数の社殿を持っている。まったく別の神様を祀る神社が同居しているのだ。天照大神を祀る神社の境内に、稲荷神社があったりする。よく見る光景だ。
これは多くの場合、明治時代におこなわれた神社合祀政策によるものだ。明治政府は国教として国家神道を打ち立てなければならなかった関係上、全国の神社を強制的に整理する必要があったのである。
まさに政治の暴力であるが、ある程度は仕方なかったのかなという気もしている。村落には普通に狸やら犬やら獣を神様として祀っている神社があったし、セクシャルなものもすくなくなかった。そういうの整理しないと、開発も難しいし。
(家の庭に鳥居があったりするのはその名残であることが多い)
南方熊楠の神社合祀反対運動は、主としてこの政策に反対するかたちでおこなわれたが、誤解されがちなのは、熊楠はなんでもかんでも反対していたわけではないということ。神社にはいかがわしいものもけっこうあるということを、熊楠は知っていた。
明治政府は、平安時代に成立した『延喜式』に載っているかどうかで神社を判断した。これがいかにくそったれかは熊楠の論にくわしい。
並行しておこなわれたのが、廃仏毀釈運動である。江戸幕府が戸籍のかわりに檀家制度を使っていた関係上、全国にはお寺がたくさんあったが、明治政府はこれを大きく変える必要があった。(税のとりかたを変えたから戸籍をしっかりする必要があった。まさに近代のはじまりだ!)
また、神仏習合といって、日本ではカミもホトケも同じものとする考えが有力だったが、国家神道の形成上、くっついてるそれもはがす必要があった。(八幡大菩薩はこのときになくなった。修験道も消えた)
上野恩寵公園は、動物園だの博物館だの美術館だの、国営の施設がいっぱいあるけれど、江戸時代には寛永寺という大きな大きな大きなお寺の寺領であった。今でも、五重塔とか、その名残がちょっとだけ残っている。
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