巻17第15話 依地蔵示従愛宕護移伯耆大山僧語 第十五
今は昔、愛宕護(あたご)の山に一人の僧が住んでいました。名を蔵算といい、仁和寺の池上(地名)の平救阿闍梨(へいきゅうあじゃり、阿闍梨は高位の僧の意)の弟子でした。
蔵算は貧しい家に生まれたため、経済的なよりどころがありませんでした。衣食を施す人もなく、身の徳行(修行)も満足にできませんでした。すべてのことがうまくいかず、乏しくないものはありません。宿因の導くところでしょうか、地蔵菩薩を祈り念じ、これを毎日の勤めとしていました。
やがて、蔵算は年齢をかさね、六十歳をすぎました。身に病があったので、命が尽きようとしていました。これを嘆き、日夜悲しんでいたある日、夢に一人の美しい小僧があらわれました。小僧は言いました。
「宿因が拙かったために、おまえは貧しいまま年老いた。伯耆(ほうき、鳥取県)の国、大山(だいせん)に詣で、現世と来世を祈り願え。大山の権現は地蔵菩薩の垂跡(すいじゃく、解説参照)である大智明菩薩(智明権現)である。大悲の願力をもって、広く一切衆生を助けてくださる」
お告げの後、夢からさめました。
すぐに伯耆の大山に詣で、熱心に勤めを行い、六年がすぎました。愛宕護に戻ってくると、京で仏徳を顕し、多くの人に帰依されました。その利益は並ぶ者がなく、僧にも一般の人にも尊敬を受けました。蔵算は貧困を脱し、豊かな身になりました。
「これはひとえに地蔵菩薩の大悲の利益である」と語り、喜び貴んだと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】
草野真一
【解説】
草野真一
この話の主人公、蔵算の師匠である仁和寺の平救阿闍梨は、日本語を漢字かなまじりで記したもっとも初期の人として知られる。清少納言や紫式部で有名なかな文学は、大陸伝来の名詞などもかなで表記していたため、読みづらいという難点があったという。
仏教受容の過程で、日本人は起源をインドにもつ多くのほとけを受け入れなければならなかった。
ギリシャの神々がキリスト教によって排斥されたように、新しい神が古い神を駆逐するのは世界の常識であるが、日本人はこの方法をとらなかった。本地垂迹(ほんじすいじゃく)という考え方によって、「神は仏が仮の姿で現れたもの(権現)である」としたのである。このため、日本には大きな宗教戦争は起こらなかった。賞賛すべきことという意見が強い。
明治の廃仏毀釈によって、この考え方は否定された。
この話は垂迹について述べた『今昔物語集』唯一の話である。
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