巻17第34話 弥勒菩薩化柴上給語 第卅四
今は昔、近江の国坂田の郡の表江の里(滋賀県米原市)に人がありました。家は大きく富み、多くの財を持っていました。「瑜伽論という法文を書写する」と願を発しましたが、公私にわたり忙しかったので、その願を達せられず、数年がたちました。
しばらくたつと、家の財はたんだん衰えて、衣食にも事欠くようになりました。阿倍天皇(孝謙天皇)の御代、天平神護二年(西暦766年)九月ごろ、ある山寺に行き、そこにとどまって住みました。やがて、その山寺に、一本の柴が生えました。その柴の皮の上に、弥勒菩薩の像があらわれました。この人は柴を仰ぎ見て、弥勒菩薩の像を見つけて、とても貴びました。
これを伝え聞いて、たくさんの人が集まるようになりました。弥勒像を貴び礼拝するとき、人々は稲や米、衣を持ってきました。多くの財を供養しました。
この人はやがて、これら諸の財を取り集めて、それ費用として瑜伽論百巻を書写して供養しました。その後、この弥勒の像は消えてしまいました。このことで、弥勒菩薩はこの人の願を遂げるために現れたのだとわかります。
弥勒菩薩は兜率天上にいらっしゃいますが、人々を救うためには、苦縛の凡地(人間界)に下り、すがたをあわらします。世の人はもっぱらに信を発し、弥勒を崇め奉るべしと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
【解説】 草野真一
写経には多くの費用が必要だ。ここは現代と大きく感覚が異なる。紙が高価であるから、大量に買い求めるには財がいるのである。
『今昔物語集』の誤り(そこに退場したはずの人がいたり、ないはずのものがあったりする)も、多くは同じところに要因を求められるだろう。推敲の習慣がないのだ。そんなもったいないことできるか、なのである。
柴は薪になるため、自生していない場合も植樹することが多かった。これが桜でも桃でもないところに、山寺の貧しい(つつましい)暮らしがうかがえる。
【協力】ゆかり
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