巻19第18話 三条太皇大后宮出家語 第十八
今は昔、三条の太皇大后宮(藤原遵子、四条が正しい)は、三条の関白太政大臣(藤原頼忠)の娘でした。
円融天皇の后となり、たいへんに時めいていましたが、やがて年月が積もり、老を重ねました。「出家しよう」と考えました。
「多武の峰に籠っておられる増賀聖人に髪を落としてもらいたい」
使者は、多武の峰に行き、この仰せを告げました。
「とても貴いことです。后を尼とすることができるのはこの増賀以外おりません。他の人では不可能なことです」
それを聞いて、弟子たちはとても驚きました。
「怒って使者をぶんなぐるんじゃないかとお思っていたのに、とても穏やかに『参りましょう』と言うなんて、めずらしいこともあるものだ」
こうして、聖人は三条の宮に参り、参内の理由を申し上げました。宮はとても喜び、「今日は吉日である」と言って、御出家の準備をされました。少々の上達部と、然るべき僧たちなど、多くの人が参っていました。内裏(天皇)からも、御使いが参りました。
聖人を見ると、目つきが怖し気で、貴くも威圧感があり気味が悪いものでありました。見る人はみな、「こういう方だからこそ、畏怖されるのだ」と思いました。
聖人は御前に召され、御几帳のもとに参り、出家の作法をおこないました。長い御髪を出して、はさみを入れました。簾の中の女房たちはみな涙しました。髪を切り終わり、御前を離れようというとき、聖人は声をはりあげて言いました。
「増賀を召して、このようにはさみを入れさせる(性交の意がある)とは、どういうことだろうか。まったくわからない。ひょっとすると、私の乱れ穢き物(陰茎)が大きいという話をどこかで聞いたのだろうか。たしかに人より大きいが、今は練絹(練ってやわらかい絹)のように乱々(みだれみだれ、ぐにゃぐにゃ)になっている。若いころはこうではなかったのに。とても残念だ」
大声で叫びました。
簾の内の女房たちは、あきれて目も口もふさがりませんでした。宮の御心は言うまでもありません。貴さも消え失せて、奇怪さに驚くばかりでした。御簾の外にいる僧俗は冷や汗をかき、心ここにあらずのありさまでした。
退出するとき、聖人は大夫(弟、藤原公任)の前に袖を合わせて座り、言いました。
「年をとって老いたため、風邪が重く、ひどく下痢をします。とても参れる状態ではありませんでしたが、深い考えあってお召しになられたのだろうと思い、無理をして出てまいりました。堪え難くなりましたので、急ぎ退出させていただきます」
聖人は西の対の南の放出の簀子(はなちいでのすのこ、せり出した建物)にしゃがんで尻をかきあげ、楾(はんぞう)の水(器)を出すように、下痢をひり散らかしました。とても穢い音がしました。御前まで聞こえました。
若い殿上人・侍などは、これを見て大笑いしました。聖人が退出した後、僧俗の長は、このような物狂いを召したことをおおいに謗りましたが、もはやどうしようもないことでした。
出家の後、宮はねんごろに行にいそしんだといわれています。
また、この后は毎年二度、御読経をおこなわれました。これは宮中行事で、后の宮が行う必要のないことでしたが、宮はおこなったのです。四日間、僧二十人を召しました。読経の間は宮の内を清浄にして、魚食を断ち、僧房を美しく保ちました。僧の食物は豪華なものを用意し、毎日、湯をわかして浴させました。布施・供養も法にのっとっておこないました。宮も沐浴潔斎し、浄衣をつけて、信の心を至して、四日間念じ入りました。
そのせいでしょうか、著しく霊験がありました。身を浄めるのを怠った者は、必ず悪い報いを受けたのです。宮の内の女房や男、下部や女官に至るまで、みな潔斎し、慎しんでいるようになりました。
しかし、このように言う人もありました。
「これだけ行なっているんだから、もっとわかりやすく験があらわれるべきなのに、さっぱりない。験がないということではないか」
この宮は、読経だけではなく、すべての行いにおいて、万事怠ることなく、おろそかにすることがありませんでした。宮に仕える人もまた、みなかしこくふるまいました。
あるとき、比叡の山の横川の恵心の僧都(源信)という道心さかんな人が京で乞食(こつじき、托鉢)することがありました。京中の上中下の道俗男女(すべての人。身分の高い人も低い人も在家も僧も男も女も)は首を垂れ、僧供を寄進しました。
宮は、銀の器をつくらせて、そこに僧供を奉りました。僧都はこれを見ると、「あまりに見苦しい」と言って、乞食をやめてしまいました。宮には深い信心がありましたが、思慮に欠けやりすぎてしまうことも多かったのです。
宮は、時の関白の御娘であり、円融天皇の后でありました。美しい方でしたが、皇子も皇女もつくることができませんでした。父の関白も親戚も、さぞ口惜しかったことでしょう。
年老いてからは、いよいよ心を発し、出家して、ねんごろに修行したと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
【解説】 草野真一
宇治拾遺物語に前段とほぼ同じ話がある。
多武峰の増賀聖人は道心(信仰心)が深く、権威を嫌っていた。皇后にたいする下ネタをふくんだ下品で無礼なふるまいも、そのあらわれである。聖人が「皇后の出家に立ち会う」と言ったとき弟子たちが驚いたのも、ふだんから皇族を嫌っていたことを知っていたからだ。別の話では皇太子をなつかしむ弟子を叱咤している(巻十九第十話)。
かっこいい……とは当時の人も思ってたようで、この時代、聖人といえば増賀である。
皇后は子をつくることができなかった。后の最大の役目を果たすことがきなかったのである。
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