巻19第23話 般若寺覚縁律師弟子僧信師遺言語 第廿三
今は昔、般若寺という寺に、覚縁律師という人がありました。もとは東大寺の僧であり、千攀僧都という人の弟子として、優れた学生でした。のちに東寺の僧となり、広沢流の寛朝僧正という人の弟子となり、真言を習い受け、やんごとなき霊験を示しました。顕教にも密教にも通じ、公・私ともに覚えめでたく、若くして律師となりました。
般若寺は師からうけついだ寺でした。堂の未申(西南)から卯酉(東西)にかけて、大きな房を立てました。節がない、よい材木をつかって、美しく造りました。西北に廊をわたらせ、もともと趣ぶかいところに、このような美しい建物を築きましたから、関白殿もごらんになりました。主だった上達部・殿上人を召して、詩をつくらせ、誰もが「この世にあるならば、こんなふうに暮らしたいものだ」と思いました。毎日、何人もの客人が訪れました。
また、覚縁は常にやんごとない御修法に召されて、しかるべき御八講(法華八講)などにはかならず召されました。そのころのやんごとなき名僧として、明豪・厳久・清範・院源、さらに覚縁の名があがっていました。
この美しい寺に住むうち、覚縁は病にかかりました。決して重い病ではなかったので、しばらくは風邪だといって、湯治などしていましたが、次第に重くなり、やがて床につくようになりました。弟子たちは集まって祈祷しました。殿や宮からも、見舞いの御使が来ない日はありません。年が若く美麗なすがたをして、才も賢く、験もあらたかなので、頼りに思う人が多く、大事にする人が多かったのです。法華経を暗誦して、たいへん貴く読むことができました。これを聞いて涙を落さぬ人はありませんでした。
病の間にも、力ない声で夜も昼も経を読んでいました。病がさらに重くなったので、弟子たちに没後の事を遺言しました。しかし、この美しい房のことは、誰にも遺言しませんでした。
「おそらく上臈の人(年功を積んだ僧。長老)にゆずられるのだろう」
みながそう考えていました。
公円という弟子がありました。たいへんな変わり者、ひねくれ者で、常にしかられるので、寺を出てあちこちで修行していました。勝尾(勝尾寺か)というところに籠もっているとき、「師が危篤である」と聞きました。驚いて寺に戻りました。
明日亡くなるという日、律師は枕元に居並んだ主だった弟子たちに、苦しげに問いました。
「憎まれていて、人並に扱われない公円はどこにいる」
「四、五日前に来ました。遠慮して御前にも出ず、後ろの壺屋などに控えているようです」
「ここに呼べ」
やんごとなき弟子たちが並んでいるのを分けるようにして呼び寄せました。
「これまで憎まれていた者をこのように召し寄せるのはどういうことだろうか」
みなが怪しく思いました。
公円もわけがわかりませんでしたが、呼ばれたので参り、近く寄りますと、律師が語りました。
「おまえはたいへんなひねくれ者で、ずっと憎たらしく思っていた。だが、おまえがさまざまなところで修行しているのを、感心することもあった。私が東といえば西に行き、立てと言えば座るのを憎々しく思っていたが、私ももう死のうとしている。この寺は、私が死んだ後には荒れて、人も立ち寄らなくなるだろう。堂も壊れてやがて失せ、仏像も盗まれてしまうだろう。しかし、おまえはどんなに堪え難くとも、他所には行くな。一枚の板であっても大切に守って、ここに住みなさい。ここにいる弟子たちは、みな立派な僧ではあるが、ここに留まって住むことはないだろう。ただおまえだけが、暑さ寒さを忍び、飢えに耐えてここに住んでくれると思ったので言うのだ。決して私の言葉に背くでないぞ」
やんごとなき弟子たちは思いました。
「私たちこそ寺に住んで、さまざまな仏事を断たず行うべきなのだ。このような賤しい法師に頼むとは、怪しいことだ。病のせいでおかしくなったのではないか」
「師がこのようにおっしゃるのは、何かわけがあるのだろう。だが、われわれもここを立ち去るつもりはない。どんなにみすぼらしい寺になろうと、師の寺に住むのは弟子の役目だ。まして、この寺は昔の僧正の御時から、代々伝えられてきた寺だ。やんごとなきところを、さらに美しく造りみがきあげているからこそ、住みたいと言う人も多くいる。まして、私たちはここを去り、どこへ行けばいいというのか」
律師が亡くなって後のことは、公円と弟子たちがとりしきりました。七々日(四十九日までの法要)は、師が生きていたころと変わらずにぎわっていました。誰もが「この寺が衰えることはない」と喜び合いましたが、四十九日の忌が明けると、疎遠な弟子はみな、もといた寺に帰っていきました。二、三十人ほどの親しい弟子は、みなこの寺に住み、師が生きていたころと同じようにふるまいましたが、年月が過ぎると、かつて律師にはばかって何も言わなかった寺の辺の里人たちが、蔑(あな)どるようになりました。僧たちも去っていきました。
死んでいなくなる人はありましたが、来て住もうという人はありませんでした。寺の近所も次第にさびれていきました。優れた弟子たちは励んでこの寺に住んでいましたが、あるいは東大寺に行き、あるいは□寺に行くなどして、散り散りに去っていきました。十余年がたつと、人影もない寺になっていました。
馬や牛が入り込んで、植込みの草も食べてしまいました。立蔀(たてじとみ)も壊れて荒れはてて、見る人もみなあわれみ、悲しく思いました。
公円ひとりが寺に残りました。ともに住む人もありませんでした。弟子の小法師一人だけが、身のまわりの世話をしていました。やがて火を見ることもなくなったので、「公円は逃げたのだろう」と思われました。
しかし、公円は貧しさもまったく顧みず、訪れる人がなくとも、ただひたすらに師の遺言を守りました。かわいそうに思って、時々訪れる人がありましたが、それも頼りにできる友にはなりませんでした。
このように堪え難いことを忍んでいたのは、ただ「師の最後の言葉を守る」と考えていたからでした。四十余年の間、寺に住んでいましたが、建物はみな倒れてしまったので、二三間(約5メートル)ほど残った廊の片端にいました。やがて命が終る時に臨み、弥陀の念仏を唱え、そこで貴く亡くなりました。
律師は弟子の心を見通して、このように言い残したのです。孝養の心が深かったからこそ、終る時も貴く死んだのでしょう。今その寺は、礎だけが残っていると語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
【解説】 草野真一
般若寺という寺は全国にあり、ここにある記述のみからどれ、と述べることはできない。しかし、「礎だけがある」という記述から、現在の京都市右京区にある般若寺址と思われる。
なお、般若寺は奈良県奈良市にもある。


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