巻19第30話 亀報百済僧弘済恩語 第三十
今は昔、備後の国三谷の郡(広島県三次市)に住む人がありました。その郡の大領(長官)が先祖でした。百済(朝鮮半島の国)が滅んだとき、縁あってかの国を助けるため、多くの眷属(兵)をひきつれ、海をわたりました(白村江の戦い)。
百済を救うことはできず、眷属もみな失い、ただひとりになりました。帰国を願いましたが、帰ることはできませんでした。祖国を恋い悲しみ、泣く泣く願を発しました。
「願いのとおり国に帰ることができたら、帰り着いた地(海路が確立していないので、どこに着くかわからない)に大伽藍を建設し、仏菩薩の像をまつりたい」
その国に弘済(ぐさい)という僧がありました。たいへん親しく、ともに後世のことまで約を交わすほどでした。ついに帰国の機会を得た際にも、弘済とともに乗船しました。
もとのように備後の国に暮らすことができました。願がかなったことを喜び、その地に大寺を建てました。弘済は共にこれを営みました。寺にまつる仏の像を造るため、黄金を入手する必要があり、弘済に多くの財を持たせて、京に上らせました。
弘済は京に上り、願ったとおりの金を得ました。帰りの際、難波の津(大阪湾)で海人(現在の海女のような職、男性も多かった)が大きな亀を捕え殺そうとしているのを見て、あわれみの心を発し、亀を買って海に放ちました。
その後、船に乗ると、備前の国骨島(岡山市児島)のあたりで、日暮方に海賊に襲われました。海賊は弘済の船に乗り移り、弘済がつれている童子二人を、海に投げ入れました。そのうえ弘済に言いました。
「おまえも早く海に入れ。入らないなら投げ入れるぞ」
弘済は手をあわせて命乞いしましたが、海賊は聞き入れませんでした。弘済は心の内に願を発し、海に飛び込みました。海賊は船の物はもちろん、手に入れた黄金も奪っていきました。
弘済が海に入ると、水は腰のあたりまでしか来ませんでした。石のようなものを踏みつけていたのです。終夜海に立っていました。夜が明けてきて、踏みつけていたものを見ると、大きる亀の甲でした。備後の浦についていました。とても不思議に思いました。
昨晩、海賊に襲われたのは備前の骨島のあたりです。今は備後の浦にあります。一夜のうちに、二国を過ぎていたのです(備前から備中をとおり備後に到達している)。
「どうしてこんなに早く着いたのだろう」
かぎりなく奇異に思いました。陸に上がって思いました。
「先日、私が買って海に放ち入れた亀が、恩に報いようとして助けてくれたのだ」
すばらしく貴く思いました。
三谷の家に帰って、主人にこのことを語りました。主人は言いました。
「海賊にあって財を奪われるのは常のことだ。しかし、命が救われたのは、ひとえに亀の恩によるものだ」
喜び貴く感じておりましたが、家に人がたずねてきて、金を売りました。弘済が見ると、あの骨島にて出会った海の六人でした。海賊は死んだはずの弘済を見て、驚き恐れ迷い、ものを言うこともできませんでした。
弘済は彼らが海賊であることを言わず、対価を与えて金を買いとりました。海賊はもうおしまいだと思いましたが弘済がことを語らず、黄金を買い取ってくれたので、歓喜して帰りました。
その後、堂が建造され、仏がまつられ、供養しました。三谷寺といいます。弘済は後に海辺に住み、往来の人を利益しました。八十歳で亡くなりました。
亀が恩返しをすることは、今にはじまったことではありません。天竺(インド)・震旦(中国)でも、この朝(日本)でもこのようであると語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
【解説】 草野真一
日本に貨幣経済が定着したのは南北朝時代といわれており、この話の主人公・弘済も仏像建造のための黄金を財と交換している(物々交換)。文中に売買が多く語られているが、貨幣を介さない交換と思われる。
百済はこのとき、唐・新羅連合軍によって滅亡した。唐は百済を高句麗征伐の軍事拠点とするべく侵攻している。唐につくか百済につくかで国論は二分された。第一回の遣唐使派遣には対立した唐とあらためて親交をつちかう意味合いも大きかったという。
戦争で難民となった百済の民には日本に帰化した人も多かった。弘済もそのひとりだった。
舞台のひとつとなった備前国骨島(岡山市児島)は現在、土砂の堆積と干拓によって半島となっている。当時は島だった。古事記や日本書紀の国産み神話でも語られている。
骨島にあらわれた海賊もまた、即座に瀬戸内海をわたって備後(広島)にあらわれたように描かれている。亀の不思議な力によって早く帰国した弘済とは異なり、海賊はふつうの人ふつうの船である。これも仏の采配だと暗に言っているのであろう。


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