巻2第28話 流離王殺釈種語 第(廿八)
今は昔、天竺の迦毗羅衛国(かぴらえこく、カピラヴァストゥ)は仏(釈迦)が生まれた国です。仏の親類は、みなその国にありました。釈種と呼ばれ、その国においてもっとも位の高い家柄でした。天竺では迦毗羅衛国の釈種(釈迦族)を師とし、貴い人としていました。
その中に、釈摩男(しゃくまなん、マハーナーマン)という人がありました。長者であり、智恵明了な人でした。国の師であり、多くの人がこの人を師として学びました。
そのころ、舎衛国(しゃえこく、コーサラ国、祇園精舎がある)の波斯匿王(はしのくおう、プラセーナジット王)には多くの后がありましたが、「迦毗羅衛国の釈種を后としよう」と考え、迦毗羅衛国の王に使者を送りました。
「この国に幾多の后があるが、みな下劣の輩である。釈種ひとりを給わり、后としたい」
迦毗羅衛国の王はこれを聞くと、多くの大臣や賢人を集め、会議をひらいていいました。
「舎衛国の波斯匿王が『迦毗羅衛国の釈種を得て后としたい』と言ってきている。かの国は、わが国より下劣の国である。たとえ、后になるとしても、かの国にやることはできない。しかし、やらなかったなら、かの国は国勢のすぐれた国なので、攻め込まれてそれに耐えることはできないだろう」
定め煩っていると、一人の賢い大臣が言いました。
「釈摩男の家の奴婢で某丸の娘は、形貌端正です。それを釈種といつわってやりましょう。どうでしょうか」
王と諸の大臣は「それはよい考えだ」と同意しました。こうして、奴婢の娘を飾り立て、「釈種だ」といつわって、かの国に送ることになりました。
波斯匿王はこの女を受け取って見ました。かぎりなく端正美麗です。その国の幾多の后とは比べものになりません。王はかぎりなく寵愛しました。名を末利(まり)夫人といいます。
やがて、二人の子が生まれました。子はとても聡明でしたから、王は八歳になったときに言いました。
「迦毗羅衛国はおまえの母の国、親密な国である。智恵は他国に勝れている。釈摩男という者があり、智恵明了で福徳殊勝だそうだ。彼が手にすれば石ころも黄金になるという。そのため、迦?羅衛国の王はこれを大長者としている。国の師であり、多くの釈種が彼から学ぶ。おまえも同じ釈種なのだから、行って彼に学びなさい」
王は子を留学させました。同じほどの年齢の大臣の子が同行しました。
かの国に行ってみると、都城の中に新しく大きな堂がありました。その正面の高いところに、釈摩男の座席がつくられていました。それに向きあう形で、釈種が学習する席が設けられていました。釈種でない人のために、その後ろに席がつくられていました。
波斯匿王の子、流離(るり)太子は、釈種の席につこうとしました。自分は釈種だと思っていたからです。多くの人は言いました。
「彼がついた席は、釈種の席、大師・釈摩男に向かって習う席である。彼は波斯匿王の太子ではあるが、この国の奴婢の娘の子だ。釈種の席を穢すべきではない」
人々は彼を追い下ろしました。
流離太子は、これを恥と考え、歎きました。ともにあった大臣の子に語りました。
「このように釈種の席から追い下ろされたことは、本国の者に話してはならない。私が本国の王となったとき、必ずこれらの釈種を罸(う)つ。それまで、このことは口外してはならない」
かたく誓わせて、本国に戻りました。
波斯匿王が死に、流離太子が王となりました(ヴィドゥーダバ王)。ともに留学した大臣の子は大臣になりました。名を好苦といいます。流離王は好苦に語りました。
「昔、迦毗羅衛国で受けた恥は、今も忘れてはいない。今こそ、釈種を罸つため、彼の国に向かうときなのだ」
無数の兵をつれて、迦毗羅衛国に向かいました。
そのとき、目連がこれを聞き、仏の御許に急ぎ参って申しました。
「舎衛国の流離王が、釈種を殺させるために、無数の兵をともなって来たります。釈種はみな殺されようとしています」
仏は言いました。
「私に何ができるだろう。殺される報(運命)ならば、どうすることもできない」
仏は流離王の通る道に行き、枯れた樹の下に坐しました。
流離王は軍を率いて迦毗羅城(都城)に入ろうして、はるかに仏が独り坐りいるのを見つけました。王は車から急いで下り、礼して、仏に申しました。
「仏よ、なぜ枯れた樹の下に坐しているのですか」
仏は答えました。
「釈種が亡ぶというので、このような枯れた樹の下に坐しているのです」
流離王は仏の言を聞き、恐縮して軍をひき、本国に帰りました。仏も霊鷲山に帰りました。
(②に続く)
【原文】
【翻訳】 草野真一
【協力】ゆかり
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