巻4第34話 天竺人兄弟持金通山語 第卅四
今は昔、天竺に兄弟がありました。ともに旅をするうち、それぞれが千両の金を得ました。
山々を通っていくうち、兄は思いました。
「弟を殺し、千両の金を奪って、私の千両に加えれば、二千両になる」
また、弟はこう思いました。
「兄を殺し、千両の金を奪い、私の千両の金に加えて、二千両を持ちたい」
お互いがそう考えていましたが、心を決められずにいました。やがて山を過ぎ、川に至りました。兄は、自分の千両の金を川に投げ入れました。
弟はこれを見て、兄に問いました。
「なぜ、金を川に投げ入れたのですか」
兄が答えました。
「山を通っているとき、『弟を殺して、持っている金を奪ってやろう』と思った。ただひとりの弟なのに、そう思ったのだ。この金を持っていなかったなら、『弟を殺そう』などとは考えなかっただろう。だから、投げ入れたのだ」
弟は言いました。
「私も同じです。『兄を殺そう』と思いました。金を持っていたせいです」
そう言って、弟も持っていた金を、川に投げ入れました。
人は食を求めて命を失うことも、財を求めて身を害することもあります。金を持っておらず貧しいからといって、それを嘆くにはあたりません。六道四生(ろくどうししょう)に落ちることも、財をむさぼるためだと語り伝えられています。
【原文】
巻4第34話 天竺人兄弟持金通山語 第卅四 [やたがらすナビ]
【翻訳】
草野真一
【校正】
草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
草野真一
じつは、兄の行動は殺意の喪失の証明にはなっていない。自分の財を投げ捨てても、「殺したい」という欲求を捨てたことにはならないのだ。黒澤明の『天国と地獄』じゃないけど、人間、素寒貧になったら殺意がつのるもんである。
しかし、彼の言葉には真実が宿っている。痛みをともなった発言のみが持つ迫真力がある。
口先だけの意見には、なんの説得力もない。うるせえだけだ。
言いたいことがあるなら、行動で示してみせろ。
自分がキモチいいから言ってるんじゃないと示すには、痛みを伴わなければならない。
……ということを以前書いたことがある。
【シミルボン】『ヨブ記』に人生との別れを見た いじめも自殺もなくならない 黙れ!
そのセリフが嘘かホントか見分けるのはとても簡単だ。それを言うことで痛んでいるかどうか。
痛みを伴わないセリフは信用しないことにしている。目下のところ、それで誤ったことはない。
「六道四生」とは、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道の六道に、胎生・卵生・湿生・化生(けしょう)の四生を重ねた言い方。仏教においては「救われない生き方/生まれ方」とされるものである。
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