巻二十三第十五話 橘則光、かたり男に功を譲る

巻二十三(全)

巻23第15話 陸奥前司橘則光切殺人語 第(十五)

今は昔、陸奥前司(むつのぜんじ・東北地方の前の国司)橘則光(たちばなののりみつ)という人がいました。
武人の家の出身ではないですが、きわめて豪胆で思慮深く、腕力などが非常に強いのでした。
容姿なども立派で、世間の評判も良かったので、人びとから一目置かれていました。

ところで、この人の若い頃のこと、一条天皇の御代に衛府の蔵人(くろうど・六衛府の武官を兼ねた蔵人)として仕えていましたが、宮中の宿直所(とのいどころ)から人に隠れて女の所へ出掛けました。
夜もしだいにふけてゆく頃で、太刀一振りを手にし、徒歩で小舎人童(こどねりわらわ・仕える童子)一人だけ連れて、宮城の門を出、大宮大路を南に下って行くと、大きな垣(土塀)のあたりに、人が何人か立っている様子です。
これを見た則光は、「ひどく恐ろしい」と思いながら、通り過ぎようとしました。
ちょうど八月九日ごろの月が西の山の端近くになっていたので、西側の大きな垣のあたりは暗がりになり、そこに立っている人影は、はっきりと見えませんが、その垣の方から声だけがして、「おう、そこを通る男。止まれ。尊い御方のお成りだぞ。絶対、通ってはならぬ」と言います。
則光は、「案の定、盗賊だ」と思ったのですが、[さすが]に引き返すこともできず、足早に通り過ぎようとすると、「さては、そのまま通る気だな」と言って、走り掛かって来る者がいます。

則光は、とっさに身を低くして、その方をうかがうと、弓の影は見えず、太刀がきらりと光って見えたので、「弓でやるのではないな」と安心し、背を丸めて逃げて行きましたが、すぐあとを追って走ってきます。
「やれ、頭を打ち割られる」と思った瞬間、にわかに脇へ飛びのいたので、追ってきた男は勢いづいて走り過ぎ、止まりもせず、目の前に飛び出しました。
それをやり過ごすや、抜き打ちに太刀を振り下ろすと、頭を真っ二つに打ち割り、相手はうつ伏せに倒れました。

「うまくやった」と思う間もなく、また、「いったいどうしたのだ」と言いながら、走り掛かって来る者がいます。
そこで太刀をおさめる隙もなく、わきにはさんだまま逃げて行くと、「こいつ、なかなか腕の立つ奴だな」と言って、走り掛かってきましたが、初めの男よりは足が速そうに思われたので、「こいつはよもや、前のようにはうまくゆくまい」と思い、とっさの思案で、ぱっと体を突き出すようにうずくまりました。
勢い込んで走って来た奴が、自分にけつまずき倒れ込むところ、体をかわして立ち上がり、起きる間も与えず、その頭を打ち割りました。

「もうこれでおしまいか」と思っていると、もう一人います。
それが、「腕達者な奴よ。このまま逃がしはせぬ」と言いながら、[しつこ]く走り掛かってきたので、「今度こそ、やられるだろう。神仏、助け給え」と祈りながら、太刀を鉾(ほこ)のように持ちかえて、勢い込んで走って来る男に向かって、真正面から、やにわに腹をぶつけ合うように突っ込んで行きました。

相手も太刀を持って切りつけようとしましたが、あまりに接近しているので、着物さえも切れません。
こちらは鉾のように持っている太刀なので、相手の身体にずぶりと入って、背中まで突き通ったのを、太刀のつかを引き戻したので、相手はあおのけざまに倒れました。
そこで、太刀を引き抜いて切りつけると、相手の太刀を抜き持った方の腕を肩から切り落としました。

金象嵌両添刃鉄鉾(5世紀、大山祇神社、愛媛県今治市)右は全姿、左は部分

こうして、その場を走り去り、「まだ他に人がいないか」と耳をすましましたが、その気配もないので、一目散に走って、中御門(なかのみかど・待賢門)に駆け込み、柱の陰に身をひそめて、「小舎人童は、どうしたろう」と待っていると、童は大宮大路を北に、泣きながら歩いて来ます。
呼ぶと走って来ました。
それを宿直所へやり、「着替えを取って来い」と言いつけました。
今まで着ていた上衣や指貫(さしぬき)には血がついていましたが、童には誰にも言うなと堅く口止めし、太刀のつかについた血などは、よく洗い落して、上衣・指貫などを着替え、そ知らぬ顔で宿直所に帰って寝てしまいました。

一晩中、「もしかしたら、これはおれがしたことだと知れるかもしれない」と、びくびくしているうちに夜が明けました。
すると、がやがや言い騒ぐ声がします。
「大宮大路の大炊御門(おおいのみかど)のあたりで、大男が三人、それほど場所を隔てずに切り倒されているぞ。おっそろしく見事な太刀さばきだ。『互いに切り合って死んだのか』と思って、よく見れば、刀の使い方はみな同じだ。敵(かたき)がやったことだろうか。だが、盗賊がやったように見せかけたのだ」と、大声で言い合っています。
殿上人たちも、「さあ、行って見よう」など言って、みな見物に出かけましたが、則光にも、「どうだ、行って見ないか」と誘って連れ出そうとするので、「行きたくない」とは思いましたが、行かないのもまた怪しまれるような気がして、しぶしぶついて行きました。

車にこぼれるほど大勢乗って、そばまで行って見ると、本当にまだ手をつけないで、そのままに置いてあります。
そのわきに、三十くらいの髭づらの男が、無地の袴に紺の荒いざらしの袷(あわせ・裏地のついた着物)、その上に山吹色の衣の袖が日に焼けたものを着、猪の逆頬(さかつら・毛皮の毛並みを逆立てたもの)の尻鞘をつけた太刀を帯び、鹿皮の沓(くつ)をはいて立ちはだかり、胸を叩き叩き得意げに死体を指差して、だれかれとなく周りの者に向かって、しゃべり散らしています。
「何者だろう」と思っていると、車の供をしてきた雑色(ぞうしき・雑用をする召使)たちが、「三人はあの男の敵で、あれに切り殺されたのだと申しているのです」と言います。則光は内心、「これはありがたい」と思い、聞いていますと、車に乗った殿上人たちが、「あの男を連れて来い。訳を聞こう」と言って、呼び寄せます。
そこで男を召し連れて来ました。

見れば、頬骨が張り、しゃくり顎で、わし鼻の赤毛の男です。
目は手でこすったせいか真っ赤で、片膝をつき、太刀のつかに手をかけて前に控えました。
「何事があったのだ」と訊くと、「じつは夜半ごろ、さる所へ行くため、ここを通りかかりましたところ、男が三人、『お前、ここを通るつもりか』と申して、走り掛かって来たので、これはてっきり盗賊だと思いましたので、存分に打ち伏せたのでございます。ですが今朝、あらためて見ますと、こいつらはこのわたくしを『長年、よい折があったら』と付け狙っていた者たちでしたので、『うまい具合に敵として打ち止めたことになった』と思いまして、奴らのそっ首を取ってくれようと思っておるのでございます」と言って立ちました。
死体を指さしたり、上を向いたり下を向いたりしながらしゃべりまくります。
殿上人たちが、「それはそれは」と感嘆していろいろ問い尋ねると、男はますます気が狂ったようにしゃべります。

これを見て、則光は内心おかしくて仕方がありませんでしたが、「こいつがこう名乗り出たからは、人殺しの罪はこいつに譲れて、ありがたい」と思い、ほっとして顔を上げました。
それ以前は、「こういう状況から、もし自分のしたことだと発覚したらどうしようか」と、人知れず心配していたのに、自分の仕業だと名乗る者が現れたので、それのせいにしてしまった、とずっと年老いてから自分の子供たちに向かって語ったのを、語り伝えたものであります。

この則光は、[敏政(としまさ)]という人の子です。
今いる駿河前司(するがのぜんじ・現在の静岡県の前の国司)季通(すえみち)という人の父である、とこう語り伝えているということです。

【原文】

巻23第15話 陸奥前司橘則光切殺人語 第(十五)
今昔物語集 巻23第15話 陸奥前司橘則光切殺人語 第(十五) 今昔、陸奥前司橘則光と云ふ人有けり。兵の家に非ねども、心極て太くて、思量(おもひはかり)賢く、身の力などぞ極めて強かりける。見目なども吉く、世の思えなども有ければ、人に所置かれてぞ有ける。

【翻訳】 柳瀬照美

【校正】 柳瀬照美・草野真一

【協力】 草野真一

【解説】 柳瀬照美

橘則光について

橘則光(965-?)は、大納言で漢詩人の橘好古が祖父、橘氏長者の敏政を父とし、花山院の乳母・右近を母とする。
修理亮、検非違使、左衛門尉、蔵人などを経て、能登・土佐・陸奥守を務め、大納言で一条朝の『寛政の四納言』の一人、藤原斉信(ふじわらのただのぶ)の家司でもあった。最終官位は、従四位上。

清少納言の最初の夫で、その親交は『枕草子』に詳しい。
『枕草子』では、いささか野暮でお人好しに描かれる則光だが、武に優れ、本話の他に大江匡房の『江談抄』、藤原行成の日記『権記』にその剛勇を伝える記事がある。

清少納言『枕草子絵巻』鎌倉時代

清少納言との間に、則長。橘行平の娘との間に、季通と光朝法師。他の妻との間に、好任という子をもうけた。

橘氏について

橘氏は、代表的な四姓としての「源平藤橘」の一つ。飛鳥時代の末、県犬養三千代が元明天皇から「橘宿禰(たちばなのすくね)」を賜ったのが始まりで、その子の葛城王が橘諸兄と改名した後、諸兄の子孫が橘氏を称した。
奈良時代に入り、諸兄の死後、その子の橘奈良麻呂が藤原仲麻呂との政権争いに敗れると、橘氏出身の者が公卿になることはなかった。しかし、奈良麻呂の孫の橘嘉智子(檀林皇后)が嵯峨天皇の皇后となると、地位が上昇し、多くの公卿を輩出するようになる。
けれどもそれは平安時代中期までで、以後は受領階級の官吏となり、中には地方に土着する者もあった。
藤原純友の乱鎮圧のため、太宰権帥として九州へ下向した参議・橘公頼の子孫は筑後に留まり、筑後橘氏を称した。また、奥州に住み着いた者たちもおり、則光の従兄弟の子で『今昔物語集』巻25第5話に登場する大君こと橘好則や清原武則の甥で前九年の役で活躍した橘貞頼・頼貞兄弟が知られている。

巻二十五第五話 平維茂と藤原諸任の死闘(その1)
巻25第5話 平維茂罸藤原諸任語 第五今は昔、実方(さねかた)の中将(藤原実方)というひとが陸奥守(むつのかみ・東北地方の国司)になって任国に下りましたが、この人は高貴な家柄の貴族であったので、国内のしかるべき武士たちはみな前の守に対す...

〈『今昔物語集』関連説話〉
橘季通:巻23「駿河前司橘季通構へて逃ぐる語第十六」
橘輔政:巻23「平維衡同じき致頼合戦をして咎を蒙る語第十三」

【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』

 

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