巻23第23話 相撲人私市宗平投上鰐語 第(廿三)
今は昔、駿河国(するがのくに・現在の静岡県中央部)に私市宗平(きさいちのむねひら)という左衛門府方の相撲人がいました。
技がうまいので、相撲の節会に出場するようになって以来、左方にも右方(現在の相撲の東西のようなもの)にも負けたことがなかったため、相撲人になってさほどたたぬうちに、脇(わき・最手に次ぐ地位で、今の関脇に相当する。左右各一名)に昇進しました。
そのころ、同じ左方の相撲人に、三河国(みかわのくに・現在の愛知県東部)の伴勢田世(とものせたよ)という相撲人がいました。
体格が良く、非常に力が強い男でありましたから、しだいに昇進し、最手(ほて・相撲の最高位)の地位を長く保っていましたが、この宗平が脇になって取り組まされたところ、勢田は打ち負かされてしまいました。
そのため、宗平が最手になり、勢田世は脇に下がりました。
このようなわけで、この宗平はまことにすぐれた相撲人であったのでした。
さて、この宗平が駿河国で四月ごろに、狩りをしていたところ、一頭の鹿が背中を射られ、そこの入り江に飛び込んで泳ぎ渡り、向こう岸の山の方へ逃げて行こうとしました。
宗平はその泳いでいく鹿のあとを追いましたが、鹿はすでに三、四町(約300から400メートル)先を泳ぎ渡っています。
宗平は立ち泳ぎをしながら鹿に追いつき、鹿の後ろ脚をつかんで肩に引っかけ、泳ぎ返ろうとしました。
そのとき、沖の方に白波が立ち、宗平の方に近づいてきます。
浜に立っていた射手たちは大声を上げて、泳いでくる宗平に、
「その波はきっと鰐ザメだ。食い殺されるぞ」
と言って、寄り集まって大騒ぎします。
その波が宗平のところまで来て、覆いかぶさると見えたので、「もはや宗平は食われてしまっただろう」と思っていたところ、波がもとの方へ返っていきます。
するとまた宗平が前のように、鹿をかついで泳いで来るのが見えます。
陸地まであと一町(約109メートル)ほどになりましたが、しばらくするとまた、あの波が宗平目がけて進んできました。
前のように宗平に覆いかぶさると見えて、しばらくしてまた返っていきます。
宗平がまだ鹿を持ったまま、岸辺まであと一、二丈(約3から6メートル)というときに、陸にいる者たちが見れば、宗平は鹿の後ろ脚二本と腰骨とを持っています。
またしばらくして、あの波が立ち、向かって来ます。
陸にいる人びとが集まって、宗平に
「早く上がれ」
と叫びます。
しかし、宗平は耳も貸さずに立ち泳いでいます。
もはや目前まで近づいた波を見ると、鰐ザメが目を金属の椀のようにランランと輝かせ、大きな口を開き、歯を刀のようにとがらせて近寄って来て、宗平に食いつこうとします。
その刹那、宗平は持っていた鹿の脚を鰐ザメの口に押し込むや、鰐ザメの頭のあごに手をさし入れ、うつむいたかと思うと、相撲人を投げるように掛け声もろとも陸の方目がけて投げ上げました。
鰐ザメは一丈(約3メートル)ほども陸地に投げ上げられて、バタバタと暴れるのを、陸の上で見ていた射手たちが矢を射かけので、鰐ザメは鹿の脚をくわえたまま射殺されました。
その後、射手たちが集まって宗平に、
「どうして、あのとき食われずにすんだのか」
と尋ねると、宗平が言うには、
「鰐ザメという奴は、物を食うとき、その場所で食わず、必ず持って行って、おのれの棲み処に置き、その残りがあればまた引き返して食いに来るものだ。されば、それを知っていたため、はじめ食いに来たときに鹿を差し出したところ、鹿の頭と首を食い切って帰って行った。次に来たとき、前足と腹の骨を食わせてやった。その次に来たときに、後ろ脚を持って食わせておいて、投げ上げたのだ。こういうことを知らない者は、一度に獲物を手から離して全部食わせ、次に来たとき、自分が必ず食われてしまう。事情を知らぬ者は、このようにはしがたいものだ。また非力な者は獲物を差し出して食わせるときに、必ず突き倒されるだろう」
と言ったので、これを聞いた射手たちは、驚嘆すべきことだと言い合いました。
さて、隣国の者までこれを聞いて盛んに褒め称えた、とこう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】 柳瀬照美
【校正】 柳瀬照美・草野真一
【解説】 柳瀬照美
古代の人びとは、獰猛なサメをワニザメ――『鰐』と称した。
その鰐よりも、相撲人の力と知恵が勝ったという話。
私市宗平は、一条天皇の治世前半期に全盛だった相撲人。正暦4年(993)7月、左の最手として右大臣・藤原実資の日記『小右記』に記されている。
【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
【協力】ゆかり・草野真一
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