巻25第1話 平将門発謀反被誅語
(その2より続く)
ところで、諸国の国司たちはこのことを漏れ聞いて皆、急いで京へ上りました。
新皇は武蔵国・相模国(東京・埼玉・神奈川)などにまで回って行き、国の印鎰(いんやく)を取り上げ、租税労役を勤めるよう国庁の留守居役の者に命じました。
その上、自分が天皇の位につく旨を、京の太政官に通達しました。
このときになって、天皇をはじめとして百官ことごとく驚愕し、宮廷内は大騒動になりました。
天皇は、「もはや仏の加護にすがり、神の助けをこうむるほかはない」とお思いになり、山々寺々に対し、顕教・密教を問わず、数多くの祈願を行わせ、また神社という神社に祈願を命ぜられたことは、愚かしい事でありました。
その間、新皇は相模国から下総国(千葉)へ帰り、いまだ馬の足を休めぬうちに、残りの敵をすべて討ち滅ぼそうと、大軍を引き連れて常陸国(茨城)へ向かいました。
これを知った藤原の一族たちは国境で待ち受けて、山海の珍味を備えて新皇をもてなしました。
新皇はこれに言います。「藤原氏の者どもよ、平貞盛らのいる所を教えよ」と。
答えていうには、「彼らは、聞くところによりますと、浮雲のように居場所を転々と変えております」と。
やがて、貞盛・護・扶などの妻が捕えられました。
新皇はこれを聞き、その女たちがはずかしめを受けないよう命じたのですが、この命令が届く前に、兵士たちによって犯されてしまいました。
しかし新皇はこの女たちを解き放ち、みな家へ帰してやりました。
新皇はその場所に数日、留まっていましたが、敵の居場所がわかりません。
やむを得ず、諸国から集めた軍兵をみな帰国させました。
残るところは、わずか千人足らずです。
このとき、貞盛および押領使(おうりょうし・凶徒の鎮定・逮捕を司る官吏)の藤原秀郷(ふじわらのひださと)らがこれを耳にして、「朝廷の恥をすすごう」「身命を棄てて戦おうではないか」と語り合い、秀郷らが大軍を率いて進発したので、新皇は非常に驚き、軍勢を率いて向かって行きました。
やがて、秀郷の軍と遭遇。
秀郷は戦略にすぐれ、新皇の軍を撃破します。
貞盛・秀郷は逃げる敵のあとを追って、追いつきます。
新皇は踏みとどまり、相対して戦いましたが、はるかに劣勢のため、「退却して敵を近くにおびき寄せよう」と謀り、幸島(さしま・猿島)の北に隠れている間、貞盛は新皇の屋敷をはじめ、その一族の者どもの家を片っ端から焼き払いました。
さて、新皇はいつも率いている軍勢八千余人がまだ集まらないので、わずか四百余人の軍兵と共に幸島の北山で陣を張って待ち構えていました。
貞盛・秀郷らはこれを追って行き、合戦となる間、はじめは新皇が優勢を保ち、貞盛・秀郷らの兵は撃退されましたが、その後、貞盛・秀郷らが逆に優勢となりました。
互いに身命を惜しまず戦います。
新皇は駿馬を駆り、自ら陣頭に立って奮戦しましたが、たちどころに天罰が下り、馬も走らず、手もなえ、ついには矢に当たって野の中で最後を遂げました。
貞盛・秀郷らは喜び、勇士にその首を切り落とさせました。
そして直ちに、下野国(栃木)から上奏文を添えて、その首を京へ送りました。
新皇が名を失い、命を滅ぼしたのは、かの興世王らのはかりごとにのった結果であります。
朝廷ではこのことを非常に喜び、将門の兄弟および一族一党を追捕(ついぶ)せよとの官命を東海道・東山道の諸国にお下しになりました。
また、「この一族を殺した者には褒美を与える」との旨を公布されました。
参議(さんぎ・公卿の一員)兼、修理大夫(しゅりのだいぶ・修理職の長官)右衛門督(うえもんのかみ・宮門守護の長官)の藤原忠文(ふじわらのただふみ)を征夷大将軍に任じ、刑部大輔(ぎょうぶたいふ・刑部省の次官)藤原忠舒(ふじわらのただのぶ・忠文の弟)らを添えて八か国に派遣したので、将門の兄・将俊(まさとし)および玄茂らが相模国(さがみのくに・現在の神奈川県)で殺されました。
興世王は上総国(千葉)で殺され、坂上遂高(さかのうえのかつたか)・藤原玄明らは常陸国(茨城)で殺されました。
また謀反人の一党を捜索し、討伐している間、将門の弟七、八人の中のある者は剃髪して深い山に入り、ある者は妻子を捨てて山野を放浪したのでした。
さて、経基・貞盛・秀郷らには賞を賜い、経基を従五位下に、秀郷を従四位下に、貞盛を従五位上に叙しました。
その後、将門がある人の夢に現れ、「わしは生前、一善すら行わず、悪のみつくってしまった。この悪業の報いで、今一人堪えがたい苦を受けている」と告げました――とこう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柳瀬照美
将門の乱の終焉とその後
これまで平将門は「坂東独立を目指した」と言われてきたが、近年の研究によると、坂東を制圧しておいて朝廷と和平交渉を進め、和解するつもりだったのだという。
しかし、その目論見は甘すぎた。
天慶2年(939)12月22日、「将門坂東占領」の第一報が朝廷に届き、27日、29日に詳細な情報が相次いでもたらされた。
26日には西国での「藤原純友蜂起」の報も届き、朝廷は騒然となった。
摂政で将門の旧主・藤原忠平は急ぎ対策会議を開き、朝廷の官位を恩賞に諸国の在地領主へ将門追討を命じ、参議・藤原忠文を征東大将軍に任じて関東へ向かわせた。
正月中旬、将門は貞盛らを捜したが見つけることができず、春には田おこしなどが始まるため、いったん諸国の軍勢を解散した。
わずかな手勢のみとなった将門に貞盛と下野国押領使・藤原秀郷が戦いを挑む。
激しい合戦となるが賊軍となった将門軍は敗れ、本拠地である猿島郡まで撤退する。
2月14日、烈風の中、両軍は猿島の原野で激突。初め風上に立った将門が戦いを有利に進めていたが、やがて風向きが変わり、秀郷・貞盛の軍が順風を利用して反撃。ついに貞盛が馬上の将門を射落とし、秀郷が斬り伏せて首級をあげた。
その首は京へ運ばれ、さらし首となった。
将門の男系の血筋はやがて絶えたが、女系としては、次女の春姫が将門の従弟・平忠頼の正室となって忠常を産んだ。忠常は乱を起こすが、その子らは赦され、上総氏・千葉氏、相馬氏の祖となる。
大陸からの軍事的圧力があった飛鳥時代、天武天皇は貴族たちに武芸を学ぶことを義務付けた。その脅威が去ったのちには貴族の中から武芸で身を立てようとする者が現れる。
しかし、平将門の乱の後には、この天慶の乱で勲功をあげた経基・貞盛・秀郷の子孫が「兵(つわもの)の家」を形成し、「武士」となってゆく。鎌倉時代になると、北条政子と京の典侍(てんじ・女官)との書簡などから、「武家」と「公家」と、すでに当事者たちが自覚していたことが読み取れる。
さて、戦に敗れ、獄門となった将門だが、死後、数々の伝説が作られる。
中でも、将門の首が関東を目指して空高く飛び去り、途中で力尽きて地上に落下したという、各地に残る首塚伝承。最も著名なのが、東京都千代田区大手町の平将門の首塚である。
首塚そのものは関東大震災によって損壊したが、その跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、はては時の大臣まで相次ぐ不審死が起こった。これにより、将門の祟りが噂され、仮庁舎を取り壊した一件や、第二次世界大戦後にGHQが丸の内周辺の区画整理に邪魔なこの地を撤去しようとしたとき、不審な事故が相次いだため、計画を取り止めたということもあった。
【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
『日本の歴史 第07巻 武士の成長と院政』
『なぜ、地形と地理がわかると古代史がこんなに面白くなるのか』千田稔監修、洋泉社
コメント