巻26第16話 鎮西貞重従者於淀買得玉語 第十六
今は昔、九州の筑前国(ちくぜんのくに・福岡県北西部)に□□貞重(さだしげ)という裕福な豪族がいました。
字(あざな・通称)を京大夫(きょうだいふ)といいましたが、今いる筥崎大夫則重(はこざきのたいふのりしげ)の祖父であります。
この貞重が任期を終えて上京する□□輔を送って一緒に京に上るというので、宇治殿(うじどの・藤原頼通)に献上するためと、また、自分の知人への贈り物にしようと思い、唐人から六、七疋(六、七万文)ほど銭を借り、その質に立派な太刀を十振り渡しました。
京に上ると、まず宇治殿に献上品を奉り、自分の知人に贈り物などして帰途につきました。
淀で船に乗りましたが、知人が送別の宴を設けてくれたので、食事などしていると、そこに船で商いする者が近寄ってきて、
「玉を買いませんか」
と言います。
誰も耳を貸そうとしませんでしたが、貞重の舎人として仕えている男が船に乗っていて、
「ここへ来い。見てやろう」
と言うと、船を漕ぎ寄せ、袴の腰から小豆ほどもある大きな[あこや]の玉を取り出して見せました。
舎人男は着ていた水干を脱ぎ、
「これと替えてくれないか」
と言います。
玉の持ち主は、「こいつは、得をした」と思ったのか、水干を手に取ると大慌てで船を突き放して行ってしまいました。
舎人男は、「高く買い過ぎたな」と思いましたが、仕方なく別の水干に着替え、悔しく思いながら玉を袴の腰に包んで帰途につきました。
やがて日数積もって、波方(はかた・博多)に着きました。
貞重は船を降りるとすぐに、銭を借りた唐人の家に行き、わずかな質物で多くの銭を借りたことの礼を[言いに行ったところ、唐人も歓待し、酒など出して話が弾みました。そのおり、玉を買った舎人男が]この家の召使の唐人に会い、
「どうです、玉を買いませんか」
と訊いてみました。
「買いましょう」
と言うので、袴の腰から玉を取り出して見せると、その召使の唐人は玉を受け取り、手のひらに乗せて、振って見ていましたが、急に「驚いた」といった顔をし、
「これはいかほどです」
と尋ねます。
いかにも欲しそうなその顔つきを舎人男は見て取って、
「十疋でどうです」
と言うと、唐人は迷い、慌てて、
「十疋で買いましょう」
と言います。
舎人男は、「これはえらく高価な物かもしれぬ」と思い、すぐに返してくれと言うと、唐人は不本意ながら返して寄越しました。
舎人男は、
「そのうちよく調べて売りましょう」
と言い、もとのように袴の腰に包んで行ってしまいました。
そのため、その唐人は貞重と向き合って座っている主人の船頭の傍に寄り、何かしら唐人の言葉でささやくと、船頭は[うなずい]て貞重に向かい、
「あなたのお供の中に玉を持っている者がいるそうですが、その玉を取り上げて、私にくださいませんか」
と言います。
貞重は人を呼び、
「供の従者の中に、玉を持っている者がいるそうだ。それを捜して呼んで来なさい」
と命じます。
すると、耳打ちした唐人が走り出て、その舎人男の袖をつかみ、
「この人です」
と言って、引き出したので、貞重は、
「おまえ、本当に玉を持っているのか」
と尋ねると、男はいやいやながら、
「持っております」
と言います。
「差し出せ」
と言われて、袴の腰から取り出したのを、貞重の郎等が取り次いで、船頭に手渡しました。
船頭はその玉を受け取り、少し振って見ると同時に立ち上がって奥に走り込みました。
貞重は、「何をしに入っていったのだろう」と思っていると、例の質に置いた太刀を抱えて出て来て、十振り全部を貞重へ返し与えました。
「玉の値段が高い、安い」など言うこともなく、何一つ言わずじまいでありました。
貞重も[あっけにとられる]ばかりです。
「水干一領で買った玉を十疋で売るのさえ高い」と思ったのに、こんな高価なものと取り替えてしまいました。
なんとも驚くべきことであります。
思うに、それ以上の値段のものであったに違いありません。
その玉は、もともとどのようにして出て来たものか由来は分かりません。
これも貞重の前世の福報のいたす所なのであろう、とこう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】 柳瀬照美
【校正】 柳瀬照美・草野真一
【解説】 柳瀬照美
日本刀は、太刀(たち)・刀・合口(あいくち)・短刀・刀子(とうす)・脇指(わきざし)など、さまざまな形があるが、刀質の優秀さをもって早くから海外にも知られ、平安から室町初期によく作られた。戦国期の慶弔年間以前のものを「古刀」、以後のものを「新刀」という。
11世紀の中国・宋の欧陽脩(おうようしゅう)が書いた『日本刀の歌』は、古来より日本刀を語るとき必ず引き合いに出される。
輸出品ともなり、刀身の美しさ等から、武器というだけでなく、魔除けともされた。
本話の中で、決して安くない日本刀十振りと交換した天然真珠は、相当な逸品であったと推測される。
けれども、その価値を見出した大陸の人間と分からなかった日本人。宝飾に関して、今でもありそうな話である。
【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
コメント