巻29第24話 近江国主女将行美濃国売男語 第廿四
今は昔、近江の国(滋賀県)□郡に住んでいる人がいました。 未だそれほどの年でもないうちに亡くなり、その妻はまだ四十歳ぐらいで一人残されました。 子も一人も産んでいません。 生れは京の人であります。
女は、死んだ夫のことを深く恋い慕い、悲しんでいました。しかし、どうすることも出来ません。いっそ、京に上ろうとも思いましたが、京にも頼みとする人がいません。途方に暮れて、思い悩んで過ごしていました。
ところで、この家には長年片時も離れず使っていた男がいました。何かにつけて頼もしげに働いてくれていましたので、夫の死後もこの男を頼りにして何事も相談していました。 その男が、
「このように、一人寂しくされているよりは、近くに山寺がございますので、しばらくご湯治などなさって、心静かにお出かけなどなさってはいかがですか」
と勧めました。女は、「それは良い事だ」と思って、
「そのように近い所であれば、行ってみましょう」
「近い所でございます。 どうしていい加減なことを申し上げましょうか」
「京に上ろうとも思ったのですが、京にはすでに両親はなく親類もいないので、そういう所に行って、いっそのこと尼にでもなりましょうか」
「山寺においでの間は、私が全てお世話させていただきます」
と男が言いますので、女は、いそいそと旅支度をしました。
こうして、女は馬に乗り、男はその後ろからついて歩いて行きました。近い所だと言っていましたが、はるかに遠くまで連れて行きますので、女が、
「いったい、どうしてこれほど遠いのかしら」と尋ねますと、
「かまわずにおいでなさいまし。 決して悪いようにはいたしません」
と言って、三日ばかりも連れて行きました。
さて、ある家の門の前で女を馬から下ろし、男は家の中に入って行きました。 女は、
「いったい、どうするつもりなのだろうか」
と不審に思いましたが、そのまま立って待っていますと、男が引き返してきて、女を中へ連れて入ります。 そして、女を板敷に畳を敷いた所に座らせました。女は訳が分からず見ていますと、この家の者が、男に絹や布などを与えています。「あれは、どういうわけで物を与えているのだろう」と思っていますと、男はそれらの品を受け取ると、逃げるように去っていったのです。
あとで聞けば、何と、この男は主の女をだまして、美濃国(岐阜県)に連れて行って売り払ったのでした。 そうして、女の目の前で代価を受け取ったのです。 女はこれを聞いて、驚きあきれました。
「これはどういうことですか。 わたしに静かなところで過ごしてはと言って、山寺に連れて行こうとしていたのではありませんか。 どうして、こんな事を」
と涙を流して言いました。しかし、恨み言を伝えるべき男はとっくに代価を受け取って馬に這い乗って走り去った後でありました。※1
女は泣き崩れていましたが、その家の主は、「女を買い取ったぞ」と思って、女に事情を尋ねました。 女は、「然々です」と、これまでの一部始終を涙を流しながら話しましたが、家の主も聞き入れようとはしません。
女はただ一人で、相談する者もなく、逃げ出すことも出来ませんので、泣き悲しんで、
「わたしを買い取りなさっても、何の得にもなりませんよ。 死ぬほどわたしをこき使われても、わたしは、どうせ間もなくこの世を去る身ですから」
と言って、泣き伏しました。
その後、食べ物など持ってきて食べさせようとしましたが、全く起き上がろうとしませんし、ましてや、口をつけようともしません。家の主は持て余してしまいました。使用人どもは、
「なに、しばらくの間は嘆き伏しているでしょうが、そのうち起き上って物も食べますよ。しばらくは様子をご覧ください」
などと、口々に言いました。しかし、数日経っても全く起き上がる気配もありませんので、
「とんでもない奴に騙されたものだ」
などと言っていますうちに、女が連れて来られてから七日目に、とうとう嘆き死んでしまいました。されば、家の主は、つまらぬ買い物をしただけで終わったのであります。
これを思いますに、口先でどんなにうまい事を言いましても、やはり下賤な者の言う事に乗ってはならないのであります。
この事は、家の主が京に上って話したのを伝え聞きまして、「誠に驚くべき哀れな事である」と思って、このように語り伝えているのでございます。
【原文】
【翻訳】 松元智宏
【校正】 松元智宏・草野真一
【協力】 草野真一
【解説】 松元智宏
※1 ここは叙述に乱れが見られるので自然な文章になるように意訳しています。詳しくは後述する解説にて。
平安時代における身売り
未亡人が使用人の男に売り払われ、失意のまま売り払われた先でわずか7日で死ぬ話。
律令時代には、良民の売買は原則として禁止されていました。しかし、本話における「女」の身売りのように、身売りは当たり前のように行われてました。(だから法で禁止して社会的にコントロールしようとするのですよね)
平安末期には「人売り買い禁止令」が出されましたが、これは「他人の奴婢を匂引し、要人に売る行為」を禁止したのであって、人の売買自体は禁止されなかったそうです。
持てる者が持たざる者から搾取する構造は、現代でも変わらないのですね。
いろいろな「物語」の数だけ作者もいろいろいる
この話、文章がおかしいところが多々あります。
一番おかしいのは逃げた男がまた女の目の前にいるかのように記述されるところです。長くなりますが、原文を交えて確認していきます。
まずは、使用人の男が女を売り、お礼の品を受け取るところから。
「男、此の物を取るままに、逃る様にして去ぬ。」
(男はそれらの品を受け取ると、逃げるように去っていった)
お礼の品を受け取ると男は逃げ去ります。最低なやつですね。そして、
「其の後に聞けば、」
(あとで聞けば、)
女は使用人の男が騙していたことを(おそらく女を買い取った主人から)聞きます。女は、
「どうして? 静かな山寺に行きましょうって言ったじゃない!」
と泣きます。ここは女を買い取った主人と話しているはずなのですが、言い回しが使用人の男に言っているかのようです。そして、次の叙述につながります。
「泣々く云へども、耳にも聞入れずして、男は直を取て、馬に這乗て、馳て去ぬ」
(泣く泣く訴えましたが、聞き入れようともせず、男は代価をとると、馬に這い乗って走り去った)
男、再び逃走。え? さっき逃げたよね? 誰?
ここは使用人の男が逃げ去った後なのに、男が目の前にいたかのように叙述されているのです。古文を読んで非常に混乱した部分でした。
「新編日本古典文学全集『今昔物語集 ④』」の現代語訳でも逃げたはずの男が再び逃げたかのように訳しています。直訳に近いのですね。同書の語注に「女は男が去った後に事情を聞いたことになるが、四行後の叙述と合わず、乱れがみられる」とあり、ここでようやくからくりが分かったのでした。
つまり、
この話の作者はどうやらあまり文章が上手ではない
のです。そう思うと、辻褄が合うところがいろいろ見えてきます。
例えば、主語のねじれが多々あります。
「女、只立出に出立つ。女をば馬に乗せて、男は後に立て行けるに」
(女を馬に乗せて、男はその後ろから歩いて行ったが)
ここは女目線で文章が続いているところに、突然、使用人の男が主語になるので読みにくいです。
また、
「涙を流して泣けれども」
(涙を流して泣いたけれども)
のような重言(じゅうげん)も見られます。
ちなみに、重言とは、「馬から落馬する」、「頭痛が痛い」など、同じ意味の語を並べる表現です。ただし、「一番最初」、「後で後悔する」、「歌を歌う」など、悪文とは言い難いものもあります。(ここも、女の悲しみを強調するためにあえて言葉を重ねていると読めなくもないですが・・・)
他にもおかしなところが多々あるのですが、できるだけ原文のニュアンスを残しつつ読みやすい訳になるように意訳しました。
古文を読む時には、古典文法や古語などの知識が自分にないから読めないのだと思ってしまうとどんどん読みにくくなっていきます。それよりも、現代のように文や文章の構造に関する知識が当時にはなかったから「悪文」になっている可能性があるぞと思って読んだ方が読みやすくなります。
「今昔物語」は様々な話が混在しているのが魅力なのですが、その分、作者にもいろいろいて、文章の練度もいろいろなのだと感じた話でした。
【参考文献】
新編日本古典文学全集『今昔物語集 ④』(小学館)
この話を分かりやすく現代小説訳したものはこちら
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