主殿頭源章家罪造語 第二十七
今は昔、主殿の頭(とのもりのかみ)、源章家という人がおりました。武家の家柄ではありませんでしたが、とにかく猛々しい性格で、昼にせよ夜にせよ、また朝から晩まで、専ら生き物を殺してばかりおりました。
この章家という人の心持ちは、とても人間とは思えないようなことが多かったのだそうです。
章家が肥後(熊本県)の守であって、肥後国に赴任しておりました頃、とても可愛がっていた、年の頃○歳くらいの男の子がおりました。この子は普段から重い病気を患っていましたので、そのことをひどく悲しみ看病している間にも、章家は小鷹狩りをしに出かけたりするものですから、章家の家臣や一族の人々も、生死の境を彷徨っている子どもがいるというのに殺生をするなんて、こんな厭な、常軌を逸したことはないと思ったり口々に言ったりしていました。
その男の子がとうとう亡くなってしまい、子どもの母親も自分まで息絶えてしまったかのように、亡くなった子の傍を離れずに泣きながら臥せってしまいました。女房や警護の者たちも、普段からその男の子と親しくしておりましたので、気立ての良い子だったと思い出しながら、亡くなった男の子を悼んで泣き合っていましたところ、章家は子どもが死んだと見届けましたその日にさえ、狩りに出て行ってしまいましたので、このことを見咎めた人々は、どうしようもない恥知らずな振舞だと思いました。知恵者であり、戒律を厳しく守っている僧侶なども、この有り様を前にして、何とか良いように取りなして言おうと思われ、「これは当たり前の人のすることではありません。きっとあの御方には何かが取り憑いていらっしゃるのでしょう」などと仰るのでした。とにかく何であろうが、慈悲の心というものが露ほどもなく、ただ生きているものは殺すものだと心得て、生き物を哀れむお気持ちは、些かも無かったのでございます。
また、年明けの、観音様の縁日に、観音様の霊験あらたかなお寺へ章家がお詣りをいたしましたとき、道中に野焼きで草が少し焼け残っていたのを目に留めますと、章家は「この草むらには必ず兎がいるはずだ。」と申しまして、家来に追い出させましたところ、子兎が六羽、走り出てきました。下男たちが集まって子兎たちを捕まえました。章家は「案の定だ、ここには兎がいるぞ。」と言いまして、その草に火をつけようとしましたので、お供をしておりました家臣たちが「年の始めの観音様の縁日にお詣りに行こうとされておりますのに、そんなことはお止めになった方がよろしいのではないでしょうか。せめて、お詣りを済ませた帰りであるならまだしも、今はまだお詣りされるところなのですから」と言って留めようとしましたが、章家は聞き入れようともせず、馬を下りて自ら草に火をつけました。そうしますと、残っていた兎はもう多くなく、ただ捕まえた子兎の親と思われる兎が一羽走り出ましたので、従者がそれを打ち殺して章家に差し出しました。警護の者たちが残った子兎を「子どもにやって飼わせてやりましょう」と一羽ずつ取りました。
さて、お詣りを無事に終えて官舎へ戻りましたら、詰所に上がるところに平らで大きな石を沓脱石として置いてありました。章家がその石の上に立って「先ほどの子兎たちを」と申しますので、途上で子兎を取った者たちが小姓などに抱かせて持ってまいりますと、章家は「しばらくここで這わせてみよう」と申して子兎を取り上げ、左右の手で一度に持って取り合わせて、まるで母親が子どもをあやすかのように「良い子だ、良い子だ」と申して可愛がる素振りでしたので、家臣たちは、只あやしているらしいと思い、皆そこに並んで座して見ておりましたところ、章家は「年の始めに捕らえた獣を生かして、食わないというのは忌々しいことだな」と言いざまに、六羽の子兎をその平らな沓脱石に叩きつけてしまいました。主人が鹿や鳥を殺すことは面白いと思っていつもであれば囃したてる家臣たちも、お詣りに行ったその日にこのようなことを目にしてしまいますと、可哀想でならず、一度に立ち上がって逃げ去ってしまいました。章家はその日のうちに、焼くなどして子兎を食べてしまったのです。
肥後国には、飽田(熊本市)という地がありました。この地は素晴らしい狩猟場でしたが、元々、倒木がうず高く重なり合い、大量の小石が一面に転がっていて、馬を走らせることがなかなか出来ず、鹿が十頭出て来たとしても、六、七頭は必ず逃げてしまい、生かして帰すことになるのでした。そのようなところに、章家は国中の人を三千人ほども動員して、これらの石を取り除かせ、窪んで穴になっているところにはその石を埋めて上に土を盛って均して地面の凸凹をなくし、その後、馬を引いてきて、躓かないように土を削らせ、そうしてから多くの人を集めて他の山々から鹿をこの地に追い込みましたので、十頭出て来た鹿のうち一頭も生きて逃れることは出来なくなってしまいました。そうしますと、章家は大層喜んで、数え切れぬほどの鹿を捕りました。その鹿の皮を剥いで国の人々に「鞣して後から献上せよ」と預け、鹿の肉だけを国府に運ばせて、政庁の南側の、広々と開けて木も植えていない庭に隙間なく並べて置かせたところ、一面に鹿の肉をぎっちりと置いてもまだ肉が余りましたので、東側の庭にも置くことになりました。このように、章家は昼と言い夜と言い、朝から晩まで、倦まず弛まず罪を重ね続けたのでございます。
飽田の狩猟場は、その後、石ころ一つなく平らかになりましたので、章家が任を離れた後、他の方々が狩猟をなさった時にも、元は十頭出て来た鹿のうち六、七頭は逃れられたものが、章家が石を拾わせた後には、一頭も生きて逃れることが出来なくなったので、今に至るまで他の人たちに殺された鹿の殺生の罪をも章家にこそ負わされることになるのでしょう。
その為、章家は臨終のときにも、「飽田の石を拾わせた罪は如何したところで潅ぐことは出来ないのだろうなぁ」と、嘆きながら亡くなったのですよと、その家の人々は語っていたと、語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 昔日香
【校正】 昔日香・草野真一
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