巻29第31話 鎮西人渡新羅値虎語 第卅一
今は昔、九州の□の国の□の郡に住んでいた人が、商いをする為に一艘の船に多くの人々と乗り合わせて新羅(朝鮮)の国へ渡りました。商いを終えた帰りに、新羅の山裾に沿って船を漕いでいましたが、「きれいな水を汲んで行こう」と清水の流れ出ているところに船を停泊して人を下船させて水を汲んでいました。船の中に残っていた一人の人が舷から海を覗いたところ、海面に山の影が映っていました。岸から高く三、四丈ばかり(約10~12m)上に虎が体を小さく潜めて狙いを定め、様子を窺っているのが海面に映っていましたので、近くにいた人たちにそれを伝えて、水を汲んでいる者たちを急いで船に呼び戻して乗船させ、手に手に櫓を持って大急ぎで船を出しました。その虎は岸から跳び降りて来て、船に飛び込んで来ようとしましたが、船が疾く出たので、虎が降りてくるのが遅れて、あと一丈ほど(約3m)飛び及ばず、虎は海の中に落ちてしまいました。
船に乗っていた人々はこれを見て驚き恐れて戸惑いました。船を急いで漕ぎ逃げながらも、集まってはこの虎を注意して見ていましたところ、虎は海に落ちてしばらくすると泳いで陸に上がり、波打ち際にある平らな石の上に登りました。「どんなことをするのだろうか」と見ると、虎の左の前足の膝から下が切れてなくなり、血が流れ落ちていました。「海中に落ちてしまったので、鰐鮫に喰い千切られたのではないか」と思って見ていると、虎はその喰い千切られた足を海水に浸して、血で鰐鮫を誘き寄せようとしていました。
しばらくすると、沖の方から鰐鮫がこの虎のいる方を目掛けてやって来ました。鰐鮫がやって来て虎に襲い掛かろうとするかと思うと、虎が右の前足で鰐鮫の頭に爪を立て、陸の方へ投げ上げると、鰐鮫は浜に一丈ほど投げ上げられ、仰向けに落ちて砂の上でばたばた跳ねました。虎が駆け寄って来て、鰐鮫の下顎に襲い掛かって噛みつき、二、三回ほど咥えたまま振り回し、鰐鮫がぐったりしたところを肩に打ち掛けました。切り立った岩壁で、高さが五、六丈ほど(約15~18m)もあろうかというところを、残った三本の脚で、まるで下り坂を走り下りているかのように軽々と駆け上がって行きましたので、船内でこの様子を見ていた人々は恐ろしくて震え上がり、半ば死んだような心地がしました。
「この虎のやってのけたことを目の当たりにすると、もしもあの時船に飛び込まれていたならば、我々は一人残さず喰い殺されて、家に帰って妻子の顔を見ることなく死んだことは間違いないだろう。素晴らしく強くて鋭い弓矢や太刀等の武器を揃え、千人の軍勢を撃退することが出来るとしても、そんなものは全く役に立つはずがない。狭い船の上で、太刀や刀を持って対抗したとしても、虎のあのように強い力や足の速さにかかっては、何が出来ようか」と口々に言い合っては、正気を失くしたようになって、船を漕ぐのも忘れるほど茫然自失となりながらも、なんとか九州まで帰り着きました。めいめい妻子にこの話を語って聞かせ、奇跡的に運良く助かって命からがら帰って来られたことを喜びました。外の人たちもこの話を聞いて大層恐れ慄きました。
このことを考えてみると、鰐鮫も海の中では獰猛で賢い生き物であるため、虎が海中に落ちた時に足を喰いちぎったのでしょう。ところがそれでいて、もっと虎を喰おうなどとつまらない了見で陸近くに来たので命を落としたのです。
ですから、万事はこれと同じです。これを聞いた人々は「度を越したことは止めるべきだ。ただほどほどにするのが良い」と言ったと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 昔日香
【校正】 昔日香・草野真一
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