巻29第38話 母牛突殺狼語 第卅八
今は昔、平城京の西側辺りに身分の低い人がいました。農業を営むために牛を飼っていました。その牛には仔牛が一頭ありました。
秋の稲刈りの済んだ田んぼで毎日放牧し、夕方になると小童部(kこわらべ、少年の使用人)が牛たちを小屋に追い込んでいました。ところがある日、飼主も小童部も、牛たちを小屋に入れることをすっかり忘れてしまいました。母牛が仔牛を連れて草を食べながら歩き回っていると、夕暮れ時になって、大きな狼が一頭現れ、仔牛を喰らってやろうとして跡をつけました。
母牛は仔牛を大事に思っていますから、狼がつけてくるのを知って、子を狼に喰わせてなるものかと思い、狼が歩き回るのに合わせ、ぐるぐると回りました。狼は、片側が切り立った崖になっている、土を固めて造った土手のようなところを背にしました。母牛は狼に向かい合い、急にぐいぐい寄って頭突きをしたので、狼はのけぞったようになり、お腹を突かれて崖に押し付けられ、身動きが取れなくなってしまいました。母牛は「万一狼を放してしまったならば、自分は喰い殺されてしまうに違いない」と思ったのか、力を振り絞って後ろ足を踏ん張り、より一層強く突きました。狼もこれには堪え切れず、死んでしまいました。
牛は狼が死んでしまったことに気づかず、まだ生きていると思い、秋の夜長の間中、狼を突きながら後ろ足を踏ん張っていました。仔牛は母牛の側に立って鳴いていました。
牛主(牛の持ち主)の隣に住んでいた小童部は、牛たちを小屋へ追い入れようとして田んぼに行き、狼が牛をつけていくところまでは見たものの、幼いために、日が暮れると戻って来て、何も言わずにいました。夜が明けて、牛主は「前の晩、牛たちを小屋に追い入れなかった。喰われて失せてしまったのではないか」と問いました。小童部は「牛は昨夜、云々のところにいて、その周りを狼が歩き回っていました」と答えました。
牛主はそれを聞いて驚き、行ってみますと、牛が大きな狼を突き付けたまま、微動だにせず立っていました。仔牛はその側で鳴きふしていました。
牛主がやって来たのを見て、牛はようやく狼をはなしました。その時には狼はとうに死んでしまっていて、体はすっかりひしゃげておりました。
牛主はこの様子を見て、「なんて思いもかけず不思議なことがあったものだろう」と驚きました。「日が沈む前に狼が来て喰いつこうとしたので、このように頭を突き付けて、放したら最後、喰われてしまうに違いないと思って夜中放さず頑張っていたのだろう」とさとって、「本当に賢いやつだ」と牛をほめ、家に連れて帰りました。
獣と言えども、優れた心の働きをする賢いものはあるのです。この話は、まさにその辺りの人が聞き継いで語り伝えたと言われています。
【原文】
【翻訳】 昔日香
【校正】 昔日香・草野真一
コメント