巻31第1話 東山科藤尾寺尼奉遷八幡新宮語 第一
今は昔、天暦(元号。947-957)の御代に、粟田山の東、山科の郷の北の方に寺がありました。藤尾寺といいます。その寺の南に別の堂があり、その堂に一人の年老いた尼が住んでいました。尼はゆたかな財産をもち、すべてに満足した暮らしを送っていました。
尼は若いころから熱心に八幡を信仰し、常に詣でていました。
「私は年来、(八幡)大菩薩に祈り、朝暮に念じ奉っている。同じことなら、自分のいる場所の近くに大菩薩をうつして、常に思うままに崇め敬いたい」
自分の住むところの近くに場所を探し、殿を造り、美しく荘厳して、大菩薩を安置し、崇め奉りました。長年たつうち、尼はさらに願い思いました。
「(石清水の)本宮では、毎年の行事として、八月十五日に法会を行い、放生会と呼んでいる。これは大菩薩の御誓によることだ。ならば、私はこの宮でも、同じ日に放生会を行いたい」
本宮の如く、もともとは決められた日ではなく、放生会はそれぞれの場所で異なる日に行を修していたのですが、本宮と同じように、八月十五日に行うようになりました。
その儀式は、本宮の放生会に異なるところはありませんでした。多くのやんごとなき僧を請じ、妙なる音楽を奏し、歌舞を捧げる法会はみごとなものでした。尼はもともと財産豊かで、貧しいということがありませんでしたから、僧への布施や楽人の禄なども、たいへん多かったのです。本宮の放生会に劣るものではありませんでした。
このようにふたつの宮で放生会が行われるようになって、数年経ちました。本宮の放生会は新宮に劣っていて、禄(報償)もすくなかったので、舞人・楽人などは、競って粟田口の放生会に参るようになりました。本宮の会は、徐々に廃れていきました。
本宮の僧俗の神官などはこれを歎き、相議して、粟田口の尼に使者を遣りました。
「八月十五日は八幡大菩薩の御誓にしたがい、昔より今に至るまで行われる放生大会です。人が発意してはじまったものではありません。しかるに、同じ日にそちらでも放生会を行うために、本宮の恒例の放生会が廃れています。そちらの放生会を八月十五日ではなく、別の日に行ってください」
尼は答えました。
「放生会は大菩薩の御誓によって、八月十五日に行うものです。尼が行う放生会も同じく大菩薩を崇め奉るためのものですから、やはり八月十五日に行われるべきです。他の日であってはなりません」
使者が帰って尼の言を伝えると、本宮の僧俗の神官は大いに怒り、相議しました。
「われわれはすみやかに、かの新宮に行き、宝殿を壊し、御聖体を奪い、本宮に安置するべきである」
神人(下級の神職)が雲のように集まり、粟田口の宮に行き、尼が昼夜崇め奉る新宮の宝殿を壊し、御正体を本宮にうつし、護国寺(石清水八幡宮の神宮寺)に安置しました。その御聖体は今も護国寺にあり、霊験あらたかです。
その後、粟田口の放生会は絶えました。もとより尼は認可を受けて行っていたことではなかったので、訴えることもできなかったのです。
尼は謗る声は世に満ちました。
「本宮から『他の日に行え』と言われたときに日をあらためていれば、今でも本宮と並んで放生会を行うことができていただろう。自分の意見を強く言って従わなかったから悪いのだ。『大菩薩を崇め奉る』と言いながら、いにしえより行われていたやんごとなき会を競うようにおこなっていた。それを大菩薩が『悪し』と考えられたのであろう」
その後、本宮の放生会はさらに盛大になり、今にいたるまで衰えることはありません。そう語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
【解説】 草野真一
「天暦の御代(947-957)のことと語られているが、物語で述べられた事件は天慶元年または二年(938-939)に起こったとされる。
八幡大菩薩という名で呼ばれ神像がつくられるのはまさに神仏習合によるものであり、ここで描かれる放生会という祭礼もインドを起源とする。
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