巻31第22話 讃岐国満農池頽国司語 第廿二
今は昔、讃岐国(さぬきのくに・現在の香川県)[那珂]郡に満濃(まの)の池という大きな池がありました。
高野の大師(弘法大師)がこの国の人のためを思って、大勢の人を集めて築きなされた池であります。
池の周りは延々と遠く連なり、堤も高いので、とても池とは思われず、海などのように見えました。
対岸は、はるか彼方がかすかに見えるほどなので、その広さが思いやられます。
この池は築造して後、長い間くずれることもなかったので、その国の者が田を作るにあたって、旱魃のときでも多くの田がこの池のおかげで助かり、国の者はみな心から喜び合っていました。
池には上のほうから多くの川がそそぎ込んでいるので、いつも水が満々とたたえられていて、絶えることがありませんでした。
そこで、池の中には大小多くの魚が棲んでいました。
これを国内の者がさかんに取っていましたが、魚が多いので、魚はいつも池に満ちて、尽きることがありませんでした。
ところが、□□の□□という人が、この国の国司として在任中、国の者や国司の館の者が集まっての雑談のついでに、「ああ、満濃の池には、なんと数限りなく魚がいることだなあ。三尺もある鯉だっているだろうよ」などと話し合っているのを守が伝え聞いて、その魚が「欲しい」と思い、「なんとかしてこの池の魚を思いきり取ってやろう」と思いましたが、池がたいそう深いので、人が降りて網を仕掛けることができません。
そこで、池の堤に大きな穴を開けて、そこから水を出し、水の落ち口に魚が入る物を仕掛けておいて水を出すようにしました。
すると、水がほとばしり出るにしたがい、その穴から無数の魚が流れ出たので、それを数限りなく取りました。
さてその後、その穴をふさごうとしましたが、水のほとばしり出る勢いが強くて、どうにもふさぐことが出来ませんでした。
もともと池には、楲(い・水門の一種)というものを立て、それに樋(とい)を設けて水を出せばこそ、池は保つものであるのに、これは堤に穴をくじり開けたものだから、穴はしだいにくずれ広がり、そのうち大雨が降って、池の上から流れ込んでくる何本もの川が増水し、その水が池に満ちあふれたものだから、ついにその穴がもとになって、堤が決壊してしまいました。
そこで池の水がすっかり流れ出てしまい、その国の人の家・田畑などことごとく流失しました。
多くの魚も流れ出て、あちらこちらでみな人に取られてしまいました。
その後は、池の中心に水が少し残っていましたが、やがてその残っていた水もすっかり涸れて、今では池の跡形もなくなっているといいます。
これを思うに、この守の欲心によって池は無に帰したのであります。
されば、この守はこれにより、どれほど量り知れぬ罪を得たことでありましょう。
さしも尊い権化の人、高野の大師が人助けのために築きなされた池をつぶしたことだけでも量り知れない罪であります。
その上、この池が決壊したことにより、多くの人家を破壊し、多くの田畑を流失した罪も、ただこの守ひとりが負うべきでありましょう。
まして、池の中の無数の魚が人びとに取られた罪も、他の誰が負うというのでしょうか。
何とも、つまらぬことをした守であります。
されば、人は絶対むやみな欲心を抱くべきではありません。
また、国の者たちも今に至るまで、その守を憎み非難しているということです。
その池の堤などの痕跡はまだ失せずに残っている、とこう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柳瀬照美
堤に穴を開けて決壊させた国司の名は、不明である。
満濃池は、日本最大の灌漑用ため池で、大宝年間(701-704)に築かれ、弘仁9年(818)に大きく決壊した。そのため弘仁12年(821)に空海が築池別当として派遣され、修復。しかしその後も何度か決壊した。元暦元年(1184)の決壊後は復旧されず、そこに村ができる。
江戸時代になった寛永5年(1628)に3年かけて大改修が行われるが、嘉永の地震で破堤。幕末から明治の初めにかけて修復される。
また、明治から昭和にかけて、三度の堤防かさ上げ工事が為された。
そして令和元年(2019)、国の名勝に指定されている。
〈『今昔物語集』関連説話〉
受領について:巻28「信濃守藤原陳忠御坂に落ち入る語第三十八」
【参考文献】
小学館 日本古典文学全
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