巻31第3話 湛慶阿闍梨還俗為高向公輔語 第三
今は昔、湛慶阿闍梨という僧がありました。慈覚大師(円仁)の弟子です。真言を極め、内外(日本と中国)の文道に通じていました。また、幾多の芸に優れていました。
湛慶は(真言の)行法を修め、公私に仕えておりました。忠仁公(藤原良房)が病にかかったとき、湛慶は祈祷のために召されて参上しました。験はいちじるしく現れ、忠仁公の病は癒えました。「しばらく滞在してくれ」と頼まれて、泊まっていると、若い女房が来て湛慶の前に僧供をととのえました。湛慶はこの女を見ると、深く愛欲の心(劣情)をおこし、ひそかに語を成して(くどいて)、契りを交わし、不淫の戒をやぶりました。しばらくはそのことを隠していましたが、やがて誰もが知るところとなりました。
以前、ねんごろに不動尊(不動明王)に仕え、修行していたとき、湛慶の夢に不動尊が現れて告げたことがありました。
「おまえはひたすら私を信仰している。私はおまえを加護しよう。しかし、おまえは前生の行いがもとで、□の国のある娘に夢中になり、夫妻になろうとするだろう」
湛慶はこれを歎き悲しみました。
「私がどうして女に落ち、不淫の戒を破るだろう。前生の因縁でそうなるというなら、その女を探しだし、殺してしまえばよい。そうすれば安心だ」
修行に出るふりをして、ひとり女の国へ向かいました。
女のところを訪ねてみると、たしかに伝えられたとおりの者がいました。湛慶は喜んでその家に忍び入り、ひそかに伺い見ました。家の南面から、その家の下男のふりをして見ると、とても端正な十歳ほどの女の子が、庭に走り出て遊んでいます。湛慶はやってきた下女にたずねました。
「あの遊んでいる女の子は誰だ」
「この館の殿のひとり娘でございます」
湛慶はこれを聞き、「この子だ」と喜んで、その日はそれだけで帰りました。
翌日、南面の庭に忍ぶと、昨日のように女子が出てきて遊びました。他に人はありません。湛慶は喜びつつ走り寄り、女の子を捕らえ、首を掻き斬りました。その様子を見た者はありません。
「そのうち誰かが見つけて大騒ぎになるだろう」
その場から逃げ去り、京に帰りました。
「(堕落のもとは絶ったから)大丈夫だ」と思っていたのに、思いもかけずここで女に落ち、不淫の戒を破ることになったのです。
「以前、不動尊が示し給うた女を殺したというのに、ここで思いがけず女犯に落ちるとは。情けないことだ」
そう思いながら女を抱いていると、女の首に大きな傷があるのに気づきました。焼いて癒着させたようです。
「これはどういう傷か」
「私は□国の□という者の娘です。幼い時、家の庭で遊んでいたら、知らない者が現れて私を捕え、首を掻き斬りました。家の人がそれを見つけて犯人を捜しましたが、行方はわからずじまいでした。その後、誰とはわかりませんが、傷を焼いてつないでくれたのです。失うはずの貴重な命を拾いました。それから縁あって、この屋敷につとめることになりました」
湛慶はおそろしくあやしく思い、哀れにも思いました。自分と女には、深き宿世の因縁があった。それを不動尊が示してくれた。貴く悲しく思って、泣く泣く女に告げました。女も哀れに思いました。二人はそれから、夫婦となりました。
湛慶は濫行に成り終わり(戒を犯し)ました。忠仁公は言いました。
「湛慶法師は既に濫行に落ちた。僧であることはできない。しかし、内外の道をきわめた者である。ここでそれを棄てるわけにはいかない。すみやかに還俗して、朝廷に仕えるべきだ」
還俗して、高向公輔と名乗りました。五位となって仕えました。高大夫と呼ばれました。もともとやんごとなき才人ですから、朝廷でもまったく落ち度はありません。やがて讃岐(香川県)の守に任じられ、家も豊かになりました。忠仁公は才覚ある人を棄てなかったのです。
高大夫は俗人となりましたが、真言の密法に通じていました。極楽寺という寺に木造の両界の像がありましたが、諸仏の位置がまちがったまま置いてありました。
「誰なら直せるだろう」
さまざまな真言師の僧を呼びましたが、あれこれ言うばかりで、直すことができません。高大夫はこれを聞くと、極楽寺に赴き、両界の像を見奉り、
「たしかにこの座位はすべてちがっている」と言って、杖を持ち、仏に声をかけました。「あなたはここにいるべきだ」「あなたはあそこにいらっしゃるべきだ」
高大夫が差し示すと、仏たちは人が手を触れてもいないのに、杖の差し示すところにみずから赴きました。
多くの人がこの様子を見ていました。
「高大夫は仏の座位を正しくするために極楽寺に来たのだ」
あらかじめ聞いていたので、身分のある人も来ていました。仏たちが自分の場所にうつるのを見て、泣く泣く貴びました。
高大夫は仏教のみならず、内外のさまざまな道に通じていたと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
【解説】 草野真一
淫行(妻帯)の罪を犯さないために少女殺害におよんだ僧の話。僧の淫行はそれほど罪が重かった。僧は還俗して役人となり、僧として得た知識で大活躍した。僧とは知識人でもあったのだ。


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