巻31第8話 移灯火影死女語 第八
今は昔、女御(身分の高い女性)のもとに勤めている若い女房がありました。小中将の君と呼ばれていました。すがたもありさまもとても美麗で、心ばえも悪くありませんでしたから、同僚の女房たちも、みな小中将を親しく思っていました。決めた男はありませんでしたが、美濃(岐阜県)の守・藤原隆経朝臣は、たまに小中将のもとを訪れました。
あるとき、小中将が薄色の衣に紅の単衣を着て、女御殿に勤めていました。夕刻、御灯油をめぐらせた火(灯火)に、薄色の衣と紅の単衣をつけた小中将が立ちました。
すがたもありさまも変わらず、袖で口を覆った目も、額つきも、髪のかたちもまったく違っていないのを見て、女房たちは「奇異なほどに似ている」などと言って騒いでいました。しかし、そこにはこのような場合の処置の仕方を心得ている年長者がなかったので、ただ集まり、見て興じるばかりで、そのまま灯を落としてしまいました。
女房たちは「こんなことがありました」と小中将に伝えました。
小中将は言いました。
「それはいやしくみすぼらしいすがただったでしょう。早く火を落としてしまえばよいのに、いつまでも見続けるなんて、恥ずかしい」
年長の人はこれを聞いて言いました。
「あれは(小中将に)飲ますべきものです。それを伝えることもせずに、火を消してとめてしまうとは」
言っても仕方ないことなので、やがてそれを語る人もいなくなりました。
二十日ほどたつと、小中将は「風邪をひいた」といって、二、三日のあいだ、局に臥しておりました。やがて「苦しい」と言うようになり、里に帰ってしまいました。
そのとき、隆経の朝臣が、知人をたずねるついでに、女御殿へ挨拶をしようとたずねました。
小中将を問うと、大盤所(女房の詰め所)の女の童が、「ただいま、里へ帰っております」と答えました。
隆経は里をたずねました。七日八日ほどの月(上弦の月)が西に傾いたころ(まだ夜中に至ってないころ)、西向きの妻戸の内に、小中将が出ているのが見えました。隆経は妻戸を押し開けて入りました。
「明け方には出立しなければならない。それを告げたら帰ろう」
そう考えていたのに、小中将のすがたを見ると、身に染みて愛しく思えました。小中将も心細げで、体の具合も悪そうだったので、隆経の朝臣は帰らずに、その家にとどまり、ともに寝ました。
夜をとおして語り、明け方に帰りましたが、女が恋しそうにしているのを振り切って出てきたので、家に帰る道すがら、気になってしかたがありませんでした。
家に帰りつくと、すぐに手紙を書き、使いに持たせました。
「気になってしかたがありません。すぐに引き返します」
返事を待ち焦がれていると、使いが持って来ました。取るものも取りあえず開いて見てみると、ただ「鳥部山」とだけ書いてありました。他には何もありません。隆経はこれを見て哀れに思い、ふところに入れて旅にでました。道中もたびたびこれを取り出して見ました。みごとな筆でした。旅先にも、果たさなければならない用事があったのですが、恋しさのあまり、急いで帰ってきました。
京について、女の家をたずねると、人が申しました。
「お亡くなりになりました。昨晩、鳥部野に葬りました」
隆経の心、悲しさは、たとえようもなかったにちがいありません。
炎に立つすがたを見たならば、必ず芯を落として、その人に飲ませるようにしなければなりません。また、祈祷もしっかりとするべきでしょう。忌むべきことであったのにただ火を落とすだけだったので、炎にうつった人は死んでしまったのです。そう語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 草野真一
【解説】 草野真一
灯火の中に姿が見えたときにはしかるべき処置をしなければならない。火を落とし、炎にうつった人に油を飲ませるのが正しい処方で、誤ると死ぬ。この話はそんな言い伝えがあったことを語っている。
もっとも、この話には「処置」の仕方がハッキリと示されていない。詳細な解説を得ることはできなかったので、誤っている可能性もある。ご存じの方教えてください。
鳥部山(鳥辺山と表記するのが普通)は京の葬送の地とされていたところで、多くの死体がそこに運ばれていた。鳥葬だったそうで、埋葬されることもほとんどなかった。死者がなければ近寄る人もなかった。
この話は平安時代の歴史書『今鏡』にも記載がある。
そこには手紙に「鳥辺山」という文字があったのではなく、
鳥辺山谷に煙の燃えたらばはかなく見えし我と知らなむ
という歌があったと記載されている。
個人的には、病床の女性が書いたのだから、この物語のように三文字ぐらいがリアリティがあると思っている。
鳥辺山については徒然草にも記載がある。
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