巻7第12話 震旦唐代宿太山廟誦仁王経僧語 第十二
今は昔、震旦の唐の徳宗皇帝(第九代皇帝)の御代で貞元十九年(803年)に、一人の僧がいました。名前も住んでいたところも明らかではありません。この僧が太山府君の御霊を祀ってある霊廟に参り、そこに泊まり込んで、不空により新訳された仁王般若経の四無常の偈(解説参照)を声に出して唱えました。
夜になって僧が寝ていると夢の中に太山府君が御姿を現して、「我は昔、御仏の前にて実際にこの経を聴いたことがあるが、それは羅什が翻訳した仁王般若経と詞や意味が全く同じであり、少しも違うところが無かった。我はその経が読誦されるのを聴いて、心身が清らかに澄み渡る心地がし、喜んだものであった。しかしながら、新訳の仁王般若経は旧訳に比べて、文や詞は更に美しいものの、意味内容においては、却って淡白で薄い。であるから、おぬしはやはり、旧訳の経を常に身近に置いて信仰せよ」と仰いました。また、毘沙門天がその経典をお与えくださる、というところまでを見ると、僧は夢から覚めました。
その後、その僧は新旧の仁王般若経を並べ置いて、同じように読誦し、信仰したと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 昔日香
【校正】 昔日香・草野真一
【解説】 昔日香
※太山府君…泰山府君とも。中国山東省泰山の山神で、この山を冥府とし、人の寿命、福祿を司る神として道教で祭られている。仏教では閻魔王の記録官としている。日本では平安時代に素戔嗚尊や大国主命と同一視され、陰陽師安倍晴明によって生命を司る神として祀られた。また、本地垂迹説(仏や菩薩が衆生を救うために神として現れたとする神仏習合説)では、この神の本地を地蔵菩薩ともいう
※四無常の偈…四非常の偈とも。仁王般若経護国品第五に見られるもので、壊滅無常、転変無常、本無無常、別離無常を説いた偈。無常、苦、空、無我を説く
※羅什が翻訳した仁王般若経…姚秦(みょうしん:中国の五胡十六国時代に羌族の族長である姚萇しんちょうによって建てられた国。後秦とも呼ばれる)の鳩摩羅什(くまらじゅう)の訳になる仏説仁王般若波羅蜜経のこと。旧訳。
仁王般若経はのちに不空訳の『仁王護國般若波羅蜜多経』が撰述された。新訳。この話では旧訳と新訳を比べている。
※毘沙門天…四天王の一で多聞天とも。六欲天の第一天である四大王衆天の中の毘沙門天の王。インドで北方の守護者、福徳の鬼神とする
※六欲天…天上界の中でも人間界に近い下部の六つの天は、依然として欲望に束縛される世界であるため三界(欲界、色界、無色界)の中の欲界に含まれ、これを六欲天という。六欲天を上から記載すると次の通り。
・他化自在天(たけじざいてん):欲界の最高位。天魔波旬(人心を乱し、善根を妨げる悪魔、悪者)の住処
・化楽天(けらくてん、楽変化天=らくへんげてん、とも):この天に住む者は、自己の対境(五境)を変化して娯楽の境とする
・兜率天(とそつてん、覩史多天=としたてん、とも):須弥山の頂上、十二由旬の処にある
・夜摩天(やまてん、焔摩天=えんまてん、とも):時に随って快楽を受くる世界
・忉利天(とうりてん、三十三天=さんじゅうさんてん、とも):須弥山の頂上、閻浮提の上、八万由旬の処にある。帝釈天のいる場所
・四大王衆天(しだいおうしゅてん、四天王の住む場所):持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王と彼らの眷属がいる場所


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