巻7第25話 震旦絳州僧徹誦法花経臨終現瑞相語 第廿五
今は昔、震旦の唐の高宗の代(649~683年)に、絳州(山西省)に一人の僧がいました。僧徹という名です。幼いときに出家し、慈悲心深く、仏法の修行に専念していました。また、人に哀れみの心をかけることには際限がありませんでした。
さて、僧徹は孫山の西の丘に堂を建てました。樹木が多く自生していて、まさに盛りでした。僧徹の住処とするにはこれ以上は望めない程のところでした。
その後、僧徹が住処を出て遊行していますと、この山々の中に一つの洞穴を見つけました。中には癩病患者が一人おりました。身体中にできものや腫れ物ができており、その臭いがひどいため、近づくこともできないくらいでした。
ところが、この病人は僧徹が通るのを見ると大声で呼び掛け、食べ物を乞いました。僧徹は病人を哀れんで、洞穴から出してやり、食べ物を与えました。この病人に、「あなたを私の住処にお連れして、養おうと思うのですが、いかがでしょうか」と言いました。病人はこれを聞いて大いに喜びました。
すると僧徹は病人を連れて住処に戻り、あっという間に洞穴を作って病人をそこに居させ、衣や食べ物を与えました。また、病人に法華経を教えて読誦させました。病人は文字が読めず、感性も鈍かったのですが、僧徹は心を尽くして一字一句から丁寧に教えることに力を費やし、決して怠りませんでした。
すると病人はついに経の半部を習得しました。その時、この病人は夢を見ました。人が出てきて「私にこの経を教えてくれた。私は自ら悟って五巻、六巻を読誦した」と思ったとたんに夢から覚めました。自分の体を見てみると、あれほどあったできものや腫れ物がすべて癒えていました。病人は「これは法華経の威力に相違ない」と信じて、実に驚くべき貴いことだと感じ入りました。その後、経一部をすべて読誦し奉ると、鬢も眉ももとの通りに生え揃いました。
その後、病人は人の病を癒やすようになり、僧徹に付き従っていくようになりました。そこで僧徹がこの人に、世に病ある人の許へ行かせて、祈祷し癒やさせると、必ずや験が現れるのでした。ですから、この人は昔は自らの身に病を患っていましたが今や人の病を癒すまでになったのです。
また、僧徹の寺の辺りは水がなく、いつも遠いなか、山を下りて行って水を汲まなければなりませんでした。ですので、いつもわずか一回分の食物しか準備することができませんでした。ところが、突如地面が陥没し、そこに泉が湧き出ました。その後はここで水に困ることはありませんてした。
その頃、房の裕仁という人がいました。秦州の刺史(地方官)でした。この人が、泉が湧いたという理由から、僧徹の寺を「陥泉寺」と改名しました。
また、僧徹は善い事を人に勧めることを専ら日常の務めとしていました。遠方、近辺問わず人は僧徹を父母のように崇敬しました。
ところが、永徽二年(651年)の正月に僧徹は弟子たちに「私はもう死ぬときが来たようだ」と告げ、衣服を整え、縄を張った粗末な椅子に姿勢を正して座し、目を閉じて動かなくなりました。その時、空は晴天であるのに、花が雪のように空を舞い落ちて、香しい匂いが僧徹の座す室内に薫りたち、消えませんでした。また、その辺り二里(唐時代は約1000メートル)ほどの樹の上が皆白く染まりました。それは粉雪のように軽いもので、三日ほどで元の色に戻りました。
また、僧徹の体が固く冷たくなった後も、三年間、生きているときのように姿勢正しく座り続けました。腐臭もせず、体が崩れることもありませんでした。ただ、目から涙を流しているだけでした。
このことは、弟子たちや近辺の人が話していたことを聞いて、語り伝えられたとのことです。

癩病を患った夫と看病する妻を描いた月岡芳年の浮世絵(1875年)。ハンセン病(癩病)は感染症であり著しく見た目をそこなうため隔離されていた。日本での感染はしばらくない。経を覚えさせるのは相当な難行だと推測される
【原文】
【翻訳】 昔日香
【校正】 昔日香・草野真一


コメント