巻7第3話 震旦豫州神母聞般若生天語 第三
今は昔、震旦の予州にひとりの老母がおりました。若い頃から因果の理法を否定する邪見の持ち主で、鬼神を崇める邪教を深く信仰し、仏法には目を向けようともしませんでした。仏法を嫌うあまりに寺や塔には一切近寄らず、道でばったり僧に出くわせば、目をふさいで引き返すほどです。そうした邪教が「神道」と呼ばれていたことから、世間の人々はこの女を「神母(じんも)」と呼んでいました。
あるとき、一頭の黄牛(あめうし)が自宅の門の外にいるのを神母は見つけました。三日経っても牛の持ち主は現れません。これは神からの贈り物なのだと女は勝手に解釈し、出ていって門内に引き入れようとしましたが、さすがに牛の力が強く、びくともしません。
そこで神母は着衣の帯を解き、牛の鼻につなぎましたが、牛は帯を引きずって逃げ出しました。神母がそれを追いかけます。やがて牛は寺に入っていきました。
神母は牛と帯を惜しがるあまりに、目をふさいで寺に入り、顔をそむけて立っていました。これは何事かと出てきた寺僧たちが神母を見かけ、心の邪見さが現れでたその姿を憐れんで、声をひとつに「南無大般波羅蜜多経」と唱えました。
神母はそれを聞くなり牛も捨て、走って寺から逃げ出しました。水辺に行って耳を洗い、「わしは今日、不吉な言葉を聞いてしまった。『南無大般若波羅蜜多経』というやつだ」と、怒りをこめて三度そのお経の名を口にし、それから家に帰りました。牛の姿はどこにも見当たりません。
その後、神母は病気にかかって死にました。実の娘が母を慕って悲しみに暮れていると、夢枕に神母が現れて、こう語りました。「わしは死んで閻魔王の裁きを受けることになった。悪行ばかりが積み重なってすこしの善根もないはずのところを、王はわしの前世の所業が書き記された札を調べるなり笑顔を浮かべて、『そなたには般若という実にありがたい概念を耳にしたという善根がある。すみやかに人間界に帰り、般若経の教えに忠実に生きるがよい』とおっしゃった。ところが、わしは人間界での寿命がすでに尽きていたので生き返ることはできず、忉利天に生まれることになった。だから娘や、どうかあんまり嘆き悲しまないでおくれ」と、そのように母が語る夢を見て、娘は目を覚ましました。
その後、娘は母を思って発心し、『般若経』のうち三百余巻を書写したということです。
この逸話から導き出されるのは、たとえ憎しみを抱きながらでも般若の名を耳にしたことの功徳はここまで大きいということです。ましてや、発心して写経に励み、つねに経文を身の近くに置いてその教えを深く信仰する人の功徳にははかりしれないものがある、と語り伝えたということです。
【原文】
巻7第3話 震旦豫州神母聞般若生天語 第三 [やたがらすナビ]
【翻訳】
待兼音二郎
【校正】
待兼音二郎・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
待兼音二郎
『今昔物語集』巻七の第三話をお届けします。第二話からだいぶ間が空いてしまい申し訳ありません。なんとか仕事も片付きつつありますので、これからは定期的にアップしていければと考えております。
さて震旦篇の巻七における巻頭の二話はいずれも国王に仕える人々、玄奘三蔵や書記官といったエリートにまつわる霊験譚でしたが、この第三話は怪しげな宗教に凝り固まった老母というまったくの庶民に焦点を当てており、芥川龍之介が「鼻」や「地獄変」の元ネタにした本朝編の諸話にも通じる、いかにも説話文学らしいおかしみに満ちた作品となっております。
震旦の予州というのは現在の河南省に相当するようで、古都・洛陽のあたりで黄河の南側に位置するまさしく中原の地です。時代背景としては、神母の実母が『般若経』三百余巻を書写したという記述があることから、玄奘三蔵による翻訳以降、つまり唐代と考えられそうです。なお、玄奘三蔵による全600巻の翻訳については巻七第一話で語られていますので、詳しくはそちらをご覧ください。
この第三話の老母が信仰していたのは、仏教に対して、鬼神を信ずる邪教で、そうした邪教が中国では「神道」と呼ばれていました。日本古来の自然信仰に由来する「神道」とは別の概念です。この老母がいかに邪教に凝り固まり、仏教を忌み嫌っていたかがこのお話しではコミカルに描き出されるわけですが、それがあくまで「仏教からみて」のものであることがポイントではないかと思っております。
たしかにこの老母、たまたま家の前にやってきた牛を自分のものにしようとし、綱代わりに使おうとした帯を牛がぶら下げたまま逃げようとすると慌てて追いかけるなど、欲心の深さにはかなりのものがありそうですが、神道については邪教と書かれているだけで、その信仰がまわりに迷惑をかけているというようなことは一切書かれておりません。
ということで、仏教サイドの人々が自分たちの正当性を主張するために、ことさらに神道を貶めているようなネガティブキャンペーンの匂いがぷんぷんしてくるわけです。
なにせ、閻魔大王の言動がいかにも安っぽい。前回の第二話は、唐の書記生が『大般若経』十巻を書写したことの功徳から、閻魔大王に蘇生を許されたという内容でしたが、今回はさらに進んで、「南無大般波羅蜜多経」とお経の名称を耳にしただけで、(さすがに蘇生まではできないものの)死後に天国のようなところに行けたというまでの安売りぶりです。しかも第二話、第三話とも閻魔大王はにっこり微笑んでおり、強面のイメージが丸崩れです。これではまるで、恫喝から一転してほほ笑み外交に転じた金正恩です。
そんなこんなから、よくある健康食品のテレビCMみたいなうさんくささを感じるのですよ。「これを飲んだだけでもうトイレでどっさり。びっくりしちゃったわよ」という愛飲者の声を通じた喧伝と同じものを、『般若経』のあまりにも持ち上げぶりに感じたわけです。
最後に「黄牛」についてですが、古くはりっぱな牛として貴ばれたとのことです。「黄牛」で検索すると、中国語サイトが多数ヒットします。まあ現在の素人目には、ごく普通の牛のようにしか見えませんが……。
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