巻7第45話 震旦幽州僧知菀造石経蔵納法問語 第卌五
今は昔、震旦の幽州というところに知菀(ちおん)という僧がいました。悟りの道に入り、仏道をもっぱらに学び、衆生を弘く救おうという誓願をたてていました。
随の大業の時代(605〜618年)に、この人が一大決心を起して岩の経蔵を造りました。それはひとえに、仏法の滅んでしまう世が来たとしても、遙か後代まで仏法を伝えたいと願ってのことでした。幽州の北方で巌に穴を掘り、石室を造りました。四面の壁を磨いてそこに経文を彫り刻みました。また、方形の石を磨いて、そこにも経文を彫り付け、石室の中に納めました。このようにして、複数の石室を経文を写した石で満たし、石で塞ぎました。石とは言え、鉄で塞ぐよりも強固なものでした。
その頃、内史の侍郎蕭瑀(しょうう)という人がいました。仏法を厚く信仰していました。知菀が石室を造って経教を納め置こうとしていることを貴んで、皇后に申し上げて絹千疋(疋は絹の単位)を布施していただきました。また、この事業にお金を出して助成していただきました。自らも絹五百疋を布施しました。すると、このことを聞いた国王から百姓に至るまで、皆が先を争って様々なものを雨あられと布施しました。
そこでこれらの供物を集めて、経蔵を思う通りに造ることができました。このとき既に職工は数多く、そこへ更に多くの僧や郷の人たちがやって来たので、仏堂や食堂、廊などを木で建造しようと考えましたが、その場所では木も瓦もほとんど得ることができませんでした。供物と交換しようにも費用が大きくかないませんでした。
そのため、どうして造ったものかと手を付けられずにいましたところ、ある夜、雨が降り、山を震わすほど雷が轟きました。明朝外に出てみると、山の麓に大きな松や柏が千本ほども水に流されて道の近くにまで積み上がっていました。山の東側は木が少なく、松や柏が見られるのは極めてまれなことでした。
僧や人々は驚き騒ぎました。これらの木々がどこからやって来たのか分からなかったので、跡を辿ってみると、西の山に峰の崩れたところがあり、木が倒れて流されてきたのだと分かりました。近隣の人も遠方の人もこの上なく喜び、神の御はからいによるものだと感謝しました。
知菀は職工に使う木を選ばせ、残った木々を郡郷の人々に分け与えました。すると人々は皆喜んで、助け合って仏堂を造りましたので、すべて思うままに造り上げることができました。
知菀が造った経石は、すべて七つの石室に納まったので、知菀は自らの誓願が満ちたことを喜び、やがて亡くなりました。知菀の死後も、その弟子たちが事業を引き継ぎ、また仏法を修めることも怠ることはなかったと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 昔日香
【校正】 昔日香・草野真一

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