巻7第48話 震旦華州張法義依懺悔得活語 第卌八
今は昔、震旦の華州の鄭県に、張の法義という人がいました。若い頃は貧に喘ぎ、礼法も知りませんでした。
貞観十年(636年)華山に入り、木を伐っていましたところ、ふと見ると岩窟に一人の僧がいました。法義はこの人を見て近寄って話していると、あっという間に日が暮れてしまい、帰れなくなったので、ここで一晩の宿を借りることにしました。
僧は松や柏の脂の粉末を法義に食べさせました。法義にこう語りました。「私は仏教修行中の身なのです。この場所に住んで随分になります。世の人たちには知られたくないのです。ですから、あなたは里におりても、ここに私が住んでいるということを誰にも言わないでください」そしてまた、法義のために、在家であることがいかに罪に堕ちやすいかということを説き知らせてくれました。「罪を犯せば死んだ後、悪道(地獄・餓鬼・畜生の世界。人間の世界より下位)に墜ちねばなりません。ですからあなたは誠心誠意懺悔をして、罪を滅却しなければなりません」と言って湯を沸かして法義を沐浴させて清浄にし、自らの法衣を脱いで法義に着せました。
翌朝、法義は懺悔してこの僧と別れました。法義は家に帰ってもこのことを誰にも話しませんでした。
その十九年後、法義は病になってすぐ死んでしまいました。家の人たちは貧しくて棺を設えることが出来ず、法義を直接、野に埋めて薪でその穴を塞ぎました。
ところが、法義は生き返って自分で木を押しのけて穴から出ると、家に帰りました。家人は帰ってきた法義に驚愕し、その訳を問いましたところ、法義はなぜ生き返ったかを語りました。その話を聞いて皆この上なく喜びました。
法義は語りました。
「私が死ぬと、二人の人が私を捕まえて空を飛んで冥府に行きました。大門を入り、さらにその中を南へ十里(約40キロ)ほど行きますと左右に多くの役所がありました。一つの役所に入ると役人がいました。
私を捕まえた青衣の使者が役人に『華州の張の法義をお連れしました』と言いますと、役人は『三日を期限として連れてくるよう申し付けたのに、七日もかかっているではないか。どういうことだ』と言われました。
使者は『法義の家の犬が悪いヤツでして。また、呪師がいて私を呪神に打たせたのです。本当に手がかかりました』と言って肩肌脱いで背中を見せました。その背中は青く腫れていました。役人は『お前は怠慢で、過ちが多いので、それぞれ杖で二十回の打擲の罰を与える』と言われ、杖で打たれた使者の血が流れて地面に滴りました。役人は『また、「これも法義の過である」と記録せよ。書記の署名をつけた文書を発行して判官に送れ』と申されました。
判官は主典を召し出して私の記録書を取り調べました。罪状の記録は非常に多く、床一面に散らばっていました。主典は私を前に立たせて、これらの聞き調べを始めました。記録条項はとても多く、朱書きで区切ってあるものもありました。主典はその中から、罪状をまだ記していないものを取り上げ、『貞観十一年(637年)に、法義の父が稲を枯らしてしまい、法義は怒った目で父をにらみ心中で父を罵った。これは不孝であり、杖八十回の罰に処することとしよう』と言って、記録を始めようとすると、昔、岩窟で会った僧がやって来るのが見えました。判官は僧を押し留めようと立ち向かって、『何用があって来られたのか』と言いますと、僧は『そこなる張の法義は私の弟子です。彼は罪を懺悔して、滅却しており、そのことはこの役所の記録にも朱書きで囲んであるはず。今ここに連れ来たのでしょうが、どうか殺さないでいただきたい』と弁明してくださいました。すると主典が『確かに懺悔した由はこちらに記してあります。しかし、父をにらみ罵ったのはその後のこと』と言いました。僧は『そう仰せになるならば、記録をすべてあらためましょう。善業があれば相殺すれば良いでしょう』と仰いました。
すると判官は主典に私を閻魔王の元へ詣らせました。見ると閻魔王の宮殿は壮大で、数千人もの侍衛がおりました。僧はここへも私についてきてくださいました。
王は僧を見ると立ち上がって出迎え、『師僧よ、当直で来られたのですか』と問いました。僧は、『いえ、まだ当直の日ではありませんが、私の弟子の張の法義という者が罪を記録されてこちらへ参ったのです。その者は過去世での罪がありますが、私がすべて朱書きし終えています。まだ死なせるほどのことはありません』と仰いました。
主典は私が怒りの目をして父を罵ったことを伝えました。
王は『それは懺悔の後であるから免ずる訳にはいかない。しかしながら師僧がわざわざ来て七日ほどの猶予を請うているのだ。すぐに免ぜよ』
その時私は僧に言いました。『七日というのは余りにも短すぎます。ふたたび私がこちらへ戻ったときに師僧がお見えにならなければこんな恐ろしいことはありません。どうかここに居させてください』と願いました。すると僧は『ここでの七日は人界での七年にあたるのです。そなたは早くお還りなさい』と言われましたので、私は早速僧に出ることの許しを請いました。そこで僧は王の一筆を請うて私の掌に一字を書き、さらに王の印を請うてこれを印して、『さあ早くお還りなさい。家に帰り、専らに善行を修するのですよ。もしまた後にここに来ることになって、そのときに私が見えなければ、直接その手の中の印を見せなさい。私はいつもそなたをあわれんでいますよ』と仰いました。
私はこれを聞くや、すぐに外に出されました。僧が家を教えてくれて、入るよう促されましたが、暗かったので入る気になれませんでした。使者に押されて、やっと入りました。だんだんと我に返り、自分は土の中にいるのだな、とわかりました。穴を塞いでいた木はとても軽かったので、手で押しのけて出てきたのです」
その後、法義は山に入り、前の僧に付き従ってひたすらに仏道を修しました。手の印は瘡になってしまい、ついに癒えることはなかったと、語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 昔日香
【校正】 昔日香・草野真一

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