巻七第五話 二人の僧の明暗を分けた修行のあり方

巻七

巻7第5話 震旦并州道俊写大般若経語 第五

今は昔、震旦の并州(へいしゅう)に一人の僧がおりました。名を道俊といい、出家をして以来念仏三昧の修行に一生を賭ける決意で極楽往生を願い続け、それ以外の修行のことなどはまったく考えもしませんでした。

そのころ同じ并州に常慜(じょうみん)という別の僧がいて、極楽往生への深い誓いを立てておりました。彼の修行内容は数え切れないまでに広範で、『大般若経』の書写巻数は合わせて一万巻にもなっていました。この常慜があるとき、「ひたすらに『大般若経』を書写することです」と道俊に勧めました。「いや、私は念仏修行に専念していて余分な時間はありません。どうして『大般若経』の書写などができましょうか」というのが、それへの道俊の答えでした。

それでも常慜はめげることなく、「『般若経』は菩提へのいちばんの近道で、極楽往生には不可欠です。ぜひともこれを書写すべきです」と力説します。しかし道俊は聞く耳を持たず、「たとえ『大般若経』を書写せずとも私はおのずから疑いなく浄土に生まれることでしょう」と答えるばかりでした。

するとその夜、道俊は夢の中で海岸に立ち至りました。そこから遠くを眺めやると、海を隔てた西の岸辺にえもいわれぬほど厳かで美しい宮殿がありました。こちら側の渚の近くには六人の天童子が一艘の船に棹をさして乗っています。道俊は船上の天童子たちに「私をその船に乗せてあの西岸まで渡してください」と頼みましたが、「そなたは不信心ゆえにこの船に乗ることはできない」との答えでした。

「どうしてですか」と道俊が重ねて聞くと、天童子は次のように答えました。「そなたは知らぬのか。この船はすなわち『般若経』なのだ。『般若経』がこの世に存在しなければ、生死の海を渡ることはできない。どうして極楽浄土に至ることなどができようか。それにまた、かりにそなたがこの船に乗ることができたとしても、船はたちまち沈んでしまうだろう」というところで目が覚めました。

道俊はこれに驚くとともに後悔をし、すべての持ち物を捨てて『大般若経』を書写し奉り、心をこめて供養しました。するとその日、紫雲が西方からたなびき、空から音楽が聞こえてきました。道俊は歓喜してつつしみ敬うこと限りありませんでした。

このできごとから、成仏とは『般若経』から離れては遂げ難いものなのだと語り伝えているということです。

【原文】

巻7第5話 震旦并州道俊写大般若経語 第五 [やたがらすナビ]

【翻訳】
待兼音二郎
【校正】
待兼音二郎・草野真一
【協力】
草野真一

【解説】
待兼音二郎

極楽往生、すなわち死後に極楽浄土に生まれ変わることは、仏教修行者たちの共通の願いです。このお話は、そこに至る道として念仏修行と『大般若経』の書写のふたつを取り上げ、後者が最短経路であり王道なのだと述べるものです。

ちなみにふたりの修行僧のうち『大般若経』の書写に励むほうの常慜は、「巻六第二七話 震旦の并州の常慜、天竺に渡りて盧舎那を礼する話」にも登場し、中天竺の鞞索迦国というところで毘盧遮那仏をめぐる霊験譚を現地の人々から聞いて語り伝えたとされています。

毘盧遮那仏(奈良東大寺 奈良の大仏)

また、こちらのWEB版新纂浄土宗大辞典の記事ではその名は常敏(じょうびん)とされ、「帝の命によって『大般若』を書写し、その功徳によって浄土へ往生した」旨を法然が説いているとのことです。ということで、そこそこ有名な実在の僧で、『大般若』を書写した事績が広く知られていたというのは確かなようです。

ところでもうひとりの道俊の方が実践していた念仏三昧にも少々の説明が必要でしょう。念仏と聞くと我々は、合掌して「南無阿弥陀仏」などと仏の名を口に唱える行為を思い浮かべるものですが、それは「念仏」の語義の3つ目に過ぎず、しかも時代が下ってから盛んになった行為であり、元々の語義は(1)「法身の念仏 理法としての仏を念じること」、(2)「観念の念仏 仏の功徳や仏の相を心に思い浮べてみること」であったそうです。詳しくは、リンク先のコトバンク記事の筆頭にある『ブリタニカ国際大百科事典』の項目をご覧ください。

さて口称念仏というと、常慜が巻六第二七話で天竺の現地人の進行に触れた毘盧遮那仏にも「「南無摩訶毘盧遮那仏(なむまかびるしゃなぶつ)」というものがあるようです。我々民衆にはお経の書写よりも口で念仏を唱えるほうが馴染み深い行為ですから、『大般若経』の書写よりも毘盧遮那仏の念仏をめぐる霊験譚の方を期待してしまうのが人情ではありますね。なにせ奈良の東大寺の大仏が、他ならぬその毘盧遮那仏なのですから。

そこで今回は東大寺の大仏の画像を用意しました。ちなみに真言密教の教主である大日如来も、梵語ではMahavairocana(摩訶毘盧遮那)となり、この毘盧遮那仏(Vairocana)と同じ概念です。

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