巻七第八話 般若経を書写した功徳により延命した人の話

巻七

巻7第8話 震旦天水郡志達依般若延命語 第八

今は昔、震旦(中国)の○州は天水郡(甘粛省東南部、天水市)に一人の人がおり、名を張志達といいました。以前から書籍に信を置いて、中でも道教を褒め称えて信じていました。仏法のことはさっぱり知りませんでした。

ある日のこと、この志達が親しい友人の家を訪ねますと、家の主人が大品般若経を書写していました。志達はこれを見ても何か分からず、老子経(老子道徳経)かと思って、書写している人に「これは老子経なのでしょうか」と問いました。主人はほんの冗談のつもりで「はい、そうですよ」と答えました。志達は老子経と聞いたので、自分も経を手に取って三行書写してみましたところ、老子経とは似ても似つかないものでありましたので、志達は、なんて嫌な嘘をつかれたことかと怒り、書写したものを投げ捨てて立ち去りました。

老子道徳経(武漢市、長春観太清殿)

それから三年の後、志達は重い病気に罹ってすぐに亡くなってしまいました。ところが一晩経つと蘇生し、涙を流して嘆き悲しみ、自らの過ちを悔いて、あの大品般若経を書写していた人の家に行って、涙ながらに語りました。「貴方は私にとって大善知識です。ただ今私は貴方の徳によって命をながらえ、蘇生することが出来ました。」その家の主人はこれを聞いて、なんと不思議なことかと大いに驚き、そのわけを訊きました。志達は答えてこう述べました。「私は死んで、閻魔大王様の御前に参りました。閻魔大王様は私が来たのをご覧になり、『そなたはまことに愚か者である。邪な教えを説く者を信じて仏法を知らない』と仰り、すぐに一巻の書物を開いて私の現世での悪業を検められました。二十余枚をしらべ尽くし、残りは紙の半分ほどしかありません。その時、閻魔大王様は書を読む手をしばらく止めて、私を見て微笑み、おっしゃいました。

『そなたは既に大いなる功徳を行っている。親しい友の家に行って、図らずも大品般若経の三行を書写し奉っていた。これこそ限りない功徳である。
我らも昔、人間界にあったとき、般若経を修行したその力によって、一日を通じて、苦を受けることが軽く少なかったのだ。そなたの寿命は既に尽きているが、図らずも大品般若経を三行書写し奉ったという功徳をもって命をながらえることが出来た。さすれば人間界に返してやろう。そなたは急いで人間界に戻って、ひたすら般若経を信仰し、我がそなたを返した恩に報いるが良い』
私はこの言葉を聞くやいなや人間界に戻っていました。これが貴方のご恩でなくてなんでしょうか」これを聞いて友も大いに喜びました。

さて、志達は家に帰って私財を投げうち、大品般若経八部を書写して、精魂込めて供養し奉りました。その後、八十三歳まで生きて、病気にもならず寿命を遂げました。志達の死後、彼の家に留まっでいた人が、志達の遺した書き置きを見つけました。それには「千仏が私を迎えに来てくださいました。般若経を翼として、浄土に往生いたします」と記されていました。

これを聞いた人はみな誠心誠意、般若経を信仰したと語り伝えられています。

【原文】

巻7第8話 震旦天水郡志達依般若延命語 第八
今昔物語集 巻7第8話 震旦天水郡志達依般若延命語 第八 今昔、震旦の州の天水郡に一の人有けり。名をば張の志達と云ふ。此の人、本より書籍を憑て、道士の法を讃(ほ)めて、此れを信ず。敢て仏法を知らず。

【翻訳】 昔日香

【校正】 昔日香・草野真一

【解説】 草野真一

古来、中国にはふたつの宗教があった。ひとつは儒教、もうひとつは道教である。

儒教は「怪力乱神を語らず」、形而上のことは説かなかった。それゆえ、宗教ではないとする意見が強い。
事実、儒教は代々の皇帝の帝王学とされ、科挙(国家公務員試験)の重要な科目となっている。為政者のための教えと考えてもいいだろう。

民衆に信仰されたのは土着の道教(老荘思想)と外来(インド伝来)の仏教である。『今昔物語集』は仏教の優位を語る。

本話に語られる老子教(老子道徳教)は老子が書いたものとされるが、疑問視されている。道教の根本経典のひとつである。

老子

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今昔物語集 現代語訳

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