巻9第34話 震旦刑部侍郎宋行質行冥途語 第卅四
今は昔、震旦の唐の時代に尚書刑部の侍郎(尚書部省、行政最高機関の次官)として、宋行質という人がありました。博陵(ぶりょう)の人です。仏法を信じず、驕慢なことばかり語っていました。
その人は永徽二年(651年)五月、病にかかって死にました。同じ年の六月九日、尚書都官の令史(尚書部省の役人)、王璹(おうじゅ)という人が、にわかに病にかかって死にました。
王璹は二日後に生き返り、語りました。
「死んですぐ、四人の人がやってきて言った。『おまえを官府に召す』。私は連れられて行った。大きな門を入って建物をみると、たいへん荘厳なもので、北に向かって建てられていた。この建物の階上の西の間に、官人がひとり座っていた。太っていて、色が黒かった。東の間には僧がひとり座っていた。さきの官人と対をなすかたちになっていた。ふたりとも顔を北に向けていた。それぞれに床几(椅子)、案(机)、褥(敷物)があった。二百人ほどの使用人があり、みな冠をつけ正しく衣装をまとい、容貌も美しかった。また、階下には書記官がいた。
ひとりの老人が、首枷(くびかせ)をつけられ、縛られて、東の階の下にあった。私もまた、官府の庭で縛られた。書記が紙・筆をとって、私に問うた。
『貞観十八年(644年)に、おまえは長安の佐史(役人)に任ぜられた。そのとき、李須達(りしゅだつ)の記録を改めたのはなぜか』
『私が長安の佐史に任ぜられたのはもっと前、貞観十六年のことです。十七年には司稼寺(しかじ、農業倉庫)の府史(書記)になりました。十八年に李須達の記録が改められたということですが、(そのときは長安の佐史ではなかったので)私の罪ではありません』
庁の上にいた大官は、記録を見て、東の階下の老人に問うた。
『どうして妄語(うそ)を訴えたのか』
『私はまだ死ぬ年齢ではありません。王璹が書類を書き改めて、私の年齢を加えたために、早く寿命に達してしまったのです。妄語ではありません」
私は言った。
「私は十七年に転任しています。辞令は家にあります。取り寄せて証明させてください』
大官は私を連行してきた三人を呼び、私を縛っていた縄を解いた。みずから辞令を読み、老人に言った。
『この者が(長安の佐史から)解任されていたことはあきらかだ。おまえの言うことには道理がない』
即座に老人を退出させ、北門より出した。
北門のほうを見ると、暗くなっていて、多くの城があった。それぞれの城は、屋上に小さな垣を備えている。これらはみな、悪所(地獄)のようだった。大官はまた机上の書類を見て私に言った。
『おまえに罪はない。解放しよう。すみやかにここを去るがいい』
私は大官を拝した。官吏は私をつれて東の階に至り、僧に拝謁させた。僧は私の臂(ひじ)に印をつけ、言った。『早く立ち去るがよい』。
官吏は私をつれ、東南より出て行った。三つの門を通った。門ごとに門衛がいて、臂の印を見た。三つの門の後、第四の門に至ったが、その門はとても大きく、楼閣のようだった。まるで宮城のように門を開いた。門衛の検査もはなはだ厳しいものだった。門衛は臂の印をたしかめて、私を放免した。
門を出て東南に十歩ほど行くと、後から私を呼ぶ声がした。振り返ると、侍郎の宋行質という人だった。悲しげな、湿地のように黒い顔をしていた。頭にはなにもかぶらず、だらしない姿をして、古くて赤い上着を着て、短い髪を垂らしている。胡人(北西の異民族の蔑称)のような姿で、役所の階の下に立っていた。見張りもついていた。
その西のほうの城壁近くに、大きな木の札が立てられていた。高さ一丈(約3メートル)、幅は二尺(約60センチ)ほどだった。その札にはこう大書してあった。
『これは、罪を犯したために罰を受けようとしている五人である』
大きな字で、一字が一尺(約30センチ)ほどもある。とても明らかに見えた。床には机と椅子があって、官府の者の席のようだが、誰もいなかった。
行質は私を見てうれし泣きして言った。
『どうして来たのですか』
『官が私を召して、査問されました。しかし、転籍になっていたことが証だてられたので、放免となりました』
行質は私の両手をとって言った。
『私は官に責められ、功徳があるかどうかを問われました。功徳がないことがわかって、かぎりなく責められ、苦しんでいます。飢え、寒く、苦しいことは語ることができないほどです。君よ、かならず我が家に行ってこのことを語り、家族に私のために善根を修するよう伝えてください。懃(ねんごろ、熱心)に頼んでください』
私はこのことを了解し、その場を去った。
十歩ほど行くと、行質にふたたび呼ばれた。行質が未だ言葉を発しないうちに、庁の上座の官人がやってきた。彼は目の前に座り、怒って言った。
『私はおまえに罪がないから放免したのだ。にもかかわらず、なぜおまえはみずから囚人と関わろうとするのか』
警護の吏卒に命じ、私の耳をねじり、押して去った。
私は次の門に向かって走った。門衛が私を見て言った。
『君は耳をねじられた。いずれ聞こえなくなる。私が耳につまっている物をとってやろう』
門衛は手で私の耳を排(くじ)った。そのとき、耳は聞こえるようになった。また臂の印をしらべ、私を免し出した。
門を出ると、はなはだしく暗かった。何も見えなかった。まったくの闇の中、西および南と思える方向を探ると、みな垣であった。しかし東には手にさわるものはなかった。暗くて歩くこともままならなかったので、しばらく立ちすくんでいると、いちばんはじめに私をつれていった役人が見えた。彼は門から出て来て言った。
『私は君と親密な関係だ。君を待っていたのだ。私に銭一千を与えなさい』
私は答えず、心の中で思った。
『私は罪がなかったので放免されたのだ。役人に賄賂を握らせる必要はない』
役人は言った。
『君が私に銭をわたさないなら、行くことはできないだろう。まったく与えないのならば、おまえをつれもどし、二日間拘留するぞ。どうだ、言うとおりにしないわけにはいかないだろう』
考えたすえ、謝罪した。
『言うとおりにしましょう』
役人は言った。
『私たちは銅の銭を使っていない。白紙の銭を用いている(地上の貨幣でなく、あの世の貨幣を使っている。祭祀用の紙幣)。十五日のちに、とりに来よう』
私はこれを受諾し、戻る道を問うた。
『東に二百歩いくと、穴があいて壊れた古い垣を見つけるだろう。明るい方に向かっていくがいい。すると、君の家に至るだろう』
役人の言にしたがって行くと、やがて垣に至った。押すと、しばらくして垣は倒れた。その倒れたところから出ると、私が住んでいたところ、隆政坊(長安城内の地名か)の南の門だと気づき、家に帰り着くことができた。玄関を入ったと思うと生き返った。家の者はみな泣いていた」
その後、十五日にたちましたが、王璹は冥途で「銭をわたす」と約束したことを忘れてしまいました。その翌日、王璹はにわかに病にかかり、死んでしまいました。見ると、あの役人がいて、怒って言いました。
「君は『銭をわたす』と言ったのに、その約束を果たさず、期日は過ぎた。私に銭を与えなかった。したがって、私はふたたび君を連れ去ることにする」
金光門(長安城の西門)から出て、坑(あな)に入らせました。
王璹は過(とが)を謝し、百余回、頭を下げました。するとふたたび放免され、生き返りました。王璹は家の者に命じ、紙百張を手に入れて、銭をつくり、これを送りました。
翌日、王璹はまた病に苦しみ、例の役人の姿を見ることになりました。
「君は私に銭を与えようとしてくれた。しかし、よくない銭だった」
王璹はこれを謝し、ふたたびつくらせてもらえるよう請うた。役人がこれを許したのでまた生き返った。
二十日後、王璹は六十の銅銭で白い紙百余張を買い、紙の銭をつくりました。酒食を用意し、隆政坊(皇城)の西の門の渠の水の上で、みずからこれを焼きました。
その後、王璹の身体は軽くなり、病は癒えて、苦しむことはなくなったと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 西村由紀子
【校正】 西村由紀子・草野真一
【解説】 草野真一
長安(現在は西安)は城壁に囲まれた都市である。城の中に街がある。これは大陸では通例だ。城の外に城下町ができる日本スタイルはむしろ特殊な形といってよい。
あの世の役人が「よくない銭だ」といって紙幣を受け取らないのは、アジアではよく見る風景だ。日本では一万円札は汚れていようが破けていようが一万円札だが、アジアでは価値がなくなることがある。受け取ってもらえない。国家があまり信用されてないことの証左でもあろう。
冥界の「大官」とは閻魔、「僧」とは地蔵と考えられる。白紙の紙幣は冥銭と呼ばれる。日本でも六文銭の慣習がある。
原題は宋行質の話のようになっているが、これは何度も死んで小役人に賄賂を要求された王璹の冥界行の話である。

【協力】 いっちー








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