巻9第9話 震旦禽堅自夷域迎父孝養語 第九
今は昔、震旦(中国)の蜀の城都(四川省成都)に、禽堅という人がありました。父を信といいます。県の吏(役人)でした。
妻が禽堅を懐妊して七か月、夫の信は勅をうけたまわって夷(えびす、未開民族)の国に行くことになりました。夷は信を捕え、奴隷として責め、使役しました。信は家に帰る事ができず、朝暮に旧里を恋い、かぎりなく泣き悲しみました。
妻は旧里で月が満ち、禽堅を生みました。妻は夫が帰らないことを悲しみましたが、十一年を経て、新しい夫に嫁ぎました。
禽堅は九歳になったとき、母に父の在所を問いました。母は答えました。
「父の信は、おまえが生まれた年に勅をたまわり、夷域に行きました。そして、夷に捕らわれました。生死はわかりません。たとえ生きているとしても、はるかに遠い地です。会うことはかなわないでしょう」
禽堅はこれを聞いて涙を流して泣き悲しみました。
「父をたずねよう」
はるかな国境に向かって旅立ちました。その道は遠く、身は疲れ、食糧は尽きました。しかし七年かかって、ついに父をたずねました。
禽堅は父に会って言いました。
「私はあなたの子です。母が私を懐妊して、未だ生れないうちに、あなたは夷に行ってしまいました。私は生まれて、東西を知る年齢になりました。あなたをたずね、堪え難い道を忍んで、七年かかって来ました」
父は子を見て、手を取って、涙を流してかぎりなく悲しみました。その地の人も、この様子を見て涙を流し、悲しみ哀れみました。
そのとき、夷の長もこれを見て哀れみの心を発しました。信を解放し故国に帰し、旅の食糧も与えました。
信は喜び、子の禽堅とともに郷里に帰りました。五万里(一里は約500メートル)の道のりです。山はけわしく河は深く、虎狼などの獣も多くあって、人を害していました。往来する者の命があることはないのですが、禽堅は天地に祈り、ついに数年のち、郷里にたどりつきました。
これを聞く者はとてもめずらしいことだと思いました。親属・朋友はかぎりなく喜びました。禽堅は孝の心が深かったために、父を帰国させ、親族・朋友とふたたび会わせたのです。さらに、母を迎え、もとのとおり父とともに棲ませました。
世を挙げて禽堅を誉め貴んだと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 西村由紀子
【校正】 西村由紀子・草野真一
【解説】 西村由紀子
コメント