巻10第24話 震旦賈誼死後於墓文教子語 第廿四
今は昔、震旦の漢の時代に賈誼(かぎ。前漢の政治家・思想家・文学家。河南郡雒陽県出身)という人がありました。非常に聡明で、書を読んで理解できないということはありませんでした。
この人に一人の息子がいました。名を薪といいます。薪がまだとても幼いときに父の賈誼が亡くなってしまいましたので、薪は未だに学問を学んだことがありませんでした。「学問もせずにどうやって世の中を歩んでいけば良いのだろう」と心細く思い嘆いて、夜に父の墓へ行き、思いの丈を訴えては泣きながら拝んでいました。
その時、賈誼は子の薪を見て姿を現し、「お前は学問を学びなさい」と言いました。薪が「学問を学びたいとは思うのですが、どなたを師とすれば良いのでしょうか」と言いますと、賈誼は「お前が学問を志すならば、このように毎晩ここへ来て私について学べば良い」と言いました。
そこで、薪はその後父の教えに従って毎晩墓に参り、学問に励み、早十五年が経ちました。このように父の教えを習っていたので、既にその学問の道を究めていました。
国王がそのことをお耳に入れられ、薪を召し抱えて仕官させたところ、実に道を究めた者であることがわかりました。薪はそれから重く用いられ、遂に偉業を成し遂げました。その後、薪が父の墓に参っても賈誼は姿を見せなくなりました。
賈誼が死後も子に姿を見せ、学問を修めさせて偉業を成し遂げさせたことは、実に不思議で有難いことだと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】 昔日香
【校正】 昔日香・草野真一
【解説】 草野真一
賈誼は前漢(紀元前206年~紀元8年)の人だから、存命時に紙は一般化されていない。墓前で学問した息子の代にもない。本文には「書を読んだ」とさらっと書いてあるが、紙の本であることはあり得ない。紙は後漢(紀元25年~220年)になってはじめて質の向上と一般化があったとされる。
また、子が「学問するには師につかなきゃ」と語るのは、学校に行くという習慣がないからである。亡父の幽霊を先生とするのは、近くに先生になる人がなければ他に手がないからだ。










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