巻28第38話 信濃守藤原陳忠落入御坂語 第卅八
今は昔、信濃守(しなののかみ・現在の長野県の国司)藤原陳忠(ふじわらののぶただ)という人がいました。
任国に下って国を治め、任期が終わって上京してくる途中、御坂峠(みさかとうげ・神坂峠のことで、信濃と美濃の境にあり、難路)を越えようとしたとき、多くの馬に荷をつけ、人の乗った馬も数知れず連ねて行くうち、こともあろうに、守の乗った馬が桟道(さんどう・丸太を架け渡して作った棚状の橋の道)の端の木をあと足で踏み折り、守は馬に乗ったまま、真っ逆さまに転落しました。
谷底はどれほどとも知れぬ深さなので、守は生きていようとも思われません。
二十尋(一尋は約1.8メートルなので、36メートル)もある檜や杉が下から生い茂り、その梢がはるか谷底に見やられることからも、谷の深さはおのずから察せられます。
そんなところに守は転落したのだから、その身が無事でいられるわけはありません。
そこで、大勢の郎等(ろうとう・従者)たちは皆、馬から降り、桟道の端に居並んで底を見下ろしましたが、手のほどこしようがありません。
「まったくどうにもならない。降りる所でもあれば、降りて行って守のご様子をも見届けたいのだが、もう一日も先に進んでからなら、谷の浅い方から回って捜すこともできようが、ここから谷底へ降りる手立ては全く無い。どうしたらよかろう」など、口々にわいわい言っていると、はるか谷底から人の叫ぶ声が、かすかに聞こえました。
「守殿は、ご存命でいらっしゃった」など言い合って、こちらからも大声で呼ぶと、守が声を張り上げて何か言っている声が、はるか遠く聞こえてきました。
「おい、何かおっしゃっておられるぞ。静かにしろ。何をおっしゃっておられるのか、皆よく聞け。よく聞け」と言って、耳を澄ませます。
「『旅行用の籠に縄を長くつけて降ろせ』とおっしゃっておられるぞ」
そこで、「守は生きて何かの上に落ち留まっておいでになるのだ」とわかったので、籠に多くの者の手綱を取り集めて次々と結びつなぎ、それ降ろせ、それ降ろせと下ろしていきました。
縄尻もなくなるまで降ろしたとき、縄が止まって動かなくなったので、「もう届いたのだろう」と思っていると、谷底で、「よし、引き上げよ」と言う声が聞こえました。
「それ、『引け』とおっしゃっているぞ」と言って、手繰り上げると、いやに軽々と上がってきます。
「この籠は、やけに軽いな。守殿がお乗りなら、もっと重いはずだが」と言うと、他の者が、「木の枝などに取りすがっておられるので、軽いのだろう」と言いながら、みな集まって引いているうち、籠が上がって来ました。
見れば、平茸(ヒラタケ・朽木などに生ずる美味なきのこ)ばかり籠いっぱいに入っています。
わけが分からず、互いに顔を見合わせて、「いったい、どうしたことだ」と言っていると、また谷底から、「前のようにもう一度、降ろせ」と叫ぶ声が聞こえてきました。
これを聞いて、「では、もう一度降ろせ」と言って、籠を下ろしました。
するとまた、「引け」という声がしたので、声に応じて引くと、今度はひどく重たいです。
大勢で縄に取り掛かり、手繰り上げれば、守が籠に乗って上がって来ました。
守は片手に縄をつかみ、もう一方の手には平茸を三房ほど持って上がっておいでになりました。
引き上げ終って桟道の上へ置き、郎等たちは喜び合って、「いったい、この平茸は、どういう訳のものでございますか」と尋ねます。
すると守が答えるに、「谷に落ちた瞬間、馬は先に底へ落ちていったが、私はあとからずるずる落ちていき、木の枝がびっしり茂り入り組んだ上に、はからずも落ちかかったので、その木の枝をつかんでぶらさがったところ、下に大きな木の枝があって支えてくれた。そこで、それに足を踏ん張り、股になった大きな木の枝に取りつき、それを抱きかかえて一息ついていたところ、その木に平茸が密生しているのが目についたので、そのまま見捨てがたい気がして、まず手の届く限り取り、籠に入れて引き上げさせたのだ。まだ取り残しがあろう。たとえようもなく、たくさんあったな。ひどい損をしたような気がするぞ」と言うと、郎等たちは、「なるほど、大変なご損をされましたことで」と言って、声を合わせ、どっと笑いました。
守は、「心得違いのことを言うな、おまえたち。わしは宝の山に入って、手をむなしくして帰って来た気がするぞ。『受領たるものは倒れた所の土をつかめ』というではないか」と言うと、年配の目代(もくだい・国司の代官)が、内心では「まったく呆れたことだ」と思いながら、「まことに、ごもっともでございます。手近にある物をお取りになるのに、何の遠慮がありましょう。誰であろうと、取らずにおられるものではございません。もともと賢明であられる方は、かように死を目前にした最後の瞬間にも、心騒がず、万事普段のときのように処理なさることでございますから、慌てず、騒がず、このように平茸をお取りになったのでございます。それゆえ、任国をも平穏に治め、租税もきちんと収納なさって、すべて思いのままで上京なさるのですから、国の民はあなた様を父母のようにお慕いし、惜しみ奉っておるのでございます。されば、行く末も千秋万歳、ご繁栄のこと疑いございません」と言って、陰で仲間同士笑い合いました。
これを思うに、あんな危ない目に遭って、心を惑わさず、まず平茸を取って上がってきたとは、まことに恐ろしいほどの強欲ぶりであります。まして在任中、取り立てる物は手当たり次第、どれほど取り込んだことか、想像に余りあります。
この話を聞いた人は、どれほど憎み笑ったことだろう、とこう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】 柳瀬照美
【校正】 柳瀬照美・草野真一
【協力】 草野真一
【解説】 柳瀬照美
受領たるもの、倒れた所の土をつかめ
『受領ハ倒ル所ニ土を爴メ』というのは、当時、受領の強欲さを表して、よく世間の人の口の端にのぼっていたことわざであるという。
『尾張国解文』と本話は、受領国司の横暴と強欲ぶりを示す資料として、よく取り上げられる。
藤原陳忠について
貪欲な受領の典型例と認識されている藤原陳忠は、文章生を経て、弁官・検非違使を務めた。天元5年(982)には信濃守であったが、長保五年(1003)11月以前には没している。行年は不詳。
陳忠の父は、大納言・藤原元方(ふじわらのもとかた・888-953)で、娘の祐姫(すけひめ)が村上天皇の更衣となって、第一皇子・広平親王を生んだ。
しかし、広平親王と同い年で、右大臣・藤原師輔(ふじわらのもろすけ)の娘の中宮・安子の生んだ第二皇子・憲平親王(冷泉天皇)が師輔の力によって皇太子に立てられ、広平親王の将来が閉ざされたことにより、外祖父の元方は悶死。
死後、元方は怨霊となって師輔や冷泉天皇、その子孫に祟ったと噂された。
父が中宮の父親・師輔の政敵であったため、息子の陳忠は、中央での昇進は望めず、地方官となる以外に生きる道は無かったのだろう。
甥には、武勇に優れ、藤原道長・頼通の家司を勤めた藤原保昌(ふじわらのやすまさ)、その弟で盗賊の保輔(やすすけ)がいる。
受領について
唐や新羅の勢力の伸張によって危機感を抱いた倭の政権がそれに対抗すべく、軍団を作り、また維持するために律令国家の建設に取り組んだ。
まず、徴兵と労役・税を課すために戸籍を作り、それに応じて口分田を与えるため、検地と班田図の作成が行われ、班田収受の制度を執行したのだが、人びとは反抗し、浮浪・逃亡した。
公地公民の方針を転換して土地の私有も認められ、班田収受の法は平安時代になると、廃絶。大仏建造やたびかさなる遷都などで国家経済は破綻寸前となり、その頃には対外的な危機も去ったので、人ではなく土地に税を課すことになった。
公田(こうでん)を名(みょう)に編成し、そこに耕作する人を負名(ふみょう)として把握して、徴税する体制となる。
地方官の国司は、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官がおり、税の未進などがあれば、連帯責任で処罰された。つまり、未納分は四等官が自腹を切って納入するというもの。
しかし、紆余曲折の後、平城・嵯峨朝の大同2年(807)に、処罰は首班の守のみとされる。さらに、宇多・醍醐朝の寛平9年(897)の官符によって、中央に対する税の未進分の補填責任は、首班の守にあるとされ、介以下の任用国司は、京にいて割り当てられた俸給を受け取るだけの存在となった。
『受領(ずりょう)』とは、後任の国司が事務引き継ぎのとき、前任者に渡す書類・解由状(げゆじょう)を受領することをいうのだが、平安時代からは国司の別称となった。
現地に赴任した者のうちの最高責任者で、任期は四年。陸奥・出羽の両国、西海道(九州地方)は僻地につき、五年。行きっぱなしではなく、中上りといって、任期中に一度、上京することもあった。
受領は、子弟・郎等を率いて任国へ赴き、徴税その他を行った。
受領の着任と離任は、以下のように為される。
受領は任命されると赴任する際、天皇に対して罷申(まかりもうし)という挨拶の儀式に臨む。天皇から御言葉と衣服や布団という禄(ろく)を賜る。次に、摂政・関白・公卿へ罷申、つまり挨拶に行き、餞別として馬を与えられる。こうした挨拶回りを終えてから、吉日を選んで任国へ赴く。
国境に着くと、「境迎(さかむかえ)」という儀式が行われた。
新任の守は早朝、束帯・帯剣で国境の峠の手前で下馬し、歩いて峠の頂上に立つ。峠の下には、在庁官人つまり地元の役人たちが整列している。
用意してきた神宝がまず任国へ入り、次に守が国に入って、官人ひとりひとりが自己紹介し、守もおじぎをする。境迎の作法は国ごとに違うという。
そののち、再び馬に乗り、国庁近くの仮屋に着くと、政始(まつりごとはじめ)の儀で、赴任を伝える太政官符を差し出し、印と正倉(しょうそう)の鍵が渡された後、国府で三日間の宴会となる。
それが終わると、国中の神社を拝する神拝(じんぱい)の儀を行う。
これらの儀式を終えたのち、前任者との交代事務を済ませ、国務を行う。
受領国司は、命令書である国符を作り、それに国印を押す。また、郎等を検田使として派遣し、馬に乗って田の耕作状況と面積、作人の名、寺田・公田の区別などを調べた馬上帳を作り、それを元にして収納の対象となる田数を確定して検田目録という帳簿を作成した。さらに、負名ごとの負田検田帳で、田数と作付状況と負名を把握して徴税の基礎とした。
任期が満了し、次の国司が赴任すると、前司が官物(正税その他)を引き渡し、新任国司がそれを受け取る。これは、120日のうちに行われた。
その際に、帳簿上の数字と実際に引き継いだ官物の状況とのずれがあることについて、前司は後任者に説明し、問題点を新任国司が指摘した書類が作製されたのち、後任者は国務が執れるようになる一方、前司は指摘された点について自己の責任で補填するなどし、勘解由使(かげゆし)の監査を受けた後、新任国司から改めて交代事務が完了した旨を記した勘由状(げゆじょう)をもらって帰京した。
その後、公卿たちによる受領功過定(ずりょうこうかさだめ)という成績判定会議にかけられ、通れば、位一階昇進し、従五位上となることができた。
一方で、任期が終わったとき、税物等が二年以内に納められなかった者は、次に受領に叙されることはなかった。
そのため、一生に一度だけしか、受領になれなかった官人も多かった。
『今昔物語集』に描かれた受領たち
定められた税を納め、自らの財も増やすために、受領たちは強欲に任国の人びとから取り立てる。
『今昔物語集』には、儀式の様子だけでなく、そんな受領たちの姿を伝える説話が多くある。
巻28第39話は、寸白という寄生虫を擬人化し、「境迎」の宴席で溶けてしまったユーモラスな姿を描く。
「境迎」は現地の人びとが新任国司の賢愚を品定めする場でもあった。
巻19第32話は、神拝に関わる話。
神拝のとき、廃れた神社を復興させた国司が、それを感謝した神によって、大国の国司に任じられたという霊夢譚。
巻17第5話では、国司の任じた検田使が泥の中に埋まっていた地蔵菩薩を引き上げる話であるが、この検田使が行っていたのは、馬に乗って田に臨む馬上帳という検田帳を作成していたのだった。
巻28第27話は、目代の話。国衙の下部組織、田所・税所・調所・健児所・検非違所などを統括する目代は、実務のプロでなくては務まらず、目代には、家柄を論ぜず、事務処理能力の優れた者を任ずべし、と認知されていた。
国司は取り立ても行ったようで、巻28第31話では、公領を私有地化して脱税し、その財力で官位を買った男から、苦手とする猫を使って国司が見事、税を徴収する。
巻26第14話は、自分を陥れた陸奥守を中上りのとき、仕返しをする復讐譚。
強欲なのは、本話の陳忠だけではない。
仏の供養物を強奪する河内守。巻20第36話。
今まで以上に鮑をよこせと、強請った歌人の国司。巻31第21話。
おのれの欲のために満濃池の堤を崩壊させ、災害を引き起こした讃岐守。巻31第22話。
大飢饉で飢えに耐えかねて蔵に入ったが、からっぽで何も盗らなかったのに、磔にした無情の国司。巻29第10話。
引き継ぎの際の公文書偽造を隠ぺいするために、書生を殺した国司。巻29第26話。
一方で、わずかだが、民を思う良史もいた。
平忠常の乱で18町まで激減した上総国の耕地面積を、税を免除することと、地蔵信仰の力を借りて他国に逃散していた人びとを帰国させ、復興した藤原時重。巻17第32話。
尾張守となったとき、「大江用水」という農業用水路を造り、「尾張学校院」を建てて教育に力を入れた大江匡衡。巻24第52話。
〈『今昔物語集』関連説話〉
境迎:巻28「寸白信濃守に任じ、解け失する語第三十九」
神拝:巻19「陸奥国の神守平維叙に恩を報ずる語第三十二」
検田:巻17「夢のお告げに依りて泥の中より地蔵を掘り出だす語第五」
目代:巻28「伊豆守小野五友が目代の語第二十七」
取り立て:巻28「大蔵の大夫藤原清廉猫に怖るる語第三十一」
復讐:巻26「陸奥守に付きし人金を見付けて富を得る語第十四」
強欲:巻20「河内守慳貪に依りて現報を感ずる語第三十六」巻31「能登の国の鬼の寝屋島の語第二十一」巻31「讃岐の国の満濃池を頽す国司の語第二十二」
非情:巻29「伯耆の国府の蔵に入る盗人殺さるる語第十」巻29「日向守□□書生を殺す語第二十六」
良史:巻17「上総守時重法花を書写して地蔵の助けを蒙る語第三十二」巻24「大江匡衡和琴を和歌に読む語第五十二」
【参考文献】
小学館 日本古典文学全集24『今昔物語集四』日本の歴史 第05巻『律令国家の転換と「日本」』坂上康俊著、講談社
日本の歴史 第06巻『道長と宮廷社会』大津透著、講談社
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