巻29第26話 日向守□□殺書生語 第廿六
今は昔、日向守(ひゅうがのかみ・現在の宮崎県の国司)□□の□□という者がいました。
任国にいるうち、国司の任期が終わったので、新任の国司の着任を待つ間、引き継ぎの書類などをつじつまの合うように書かせていたうちに、国府に仕える書記の中に一人、特に事務能力にすぐれ、文字の上手い男がいたので、それを呼び寄せてひと部屋に閉じ込め、古い記録の書き直しなどをさせました。
この書記は、「『こんな虚偽の文書を書かせたからには、新国司にばらすかもしれない』と守はきっと疑心を抱くにちがいない。この守は、よからぬ心の持ち主のようだから、必ずや自分に危害を加えるだろう」と思ったものだから、「なんとかして逃げ出そう」という気になったのですが、強そうな男を四、五人つけて夜となく昼となく監視させていたので、まったく逃げ出す隙がありませんでした。
そこで、こうして書き続けているうち、二十日ほどして、書類を全部書き終えてしまいました。
それを見て、守は、「一人で多くの書類を書いてくれて、まことにありがたい。京へ上っても、わしをたよりにして忘れずにいてほしい」と言い、絹四疋(きぬしひき・反物なら、八反)を褒美として与えました。
しかし書記は、褒美をもらう気にもなれなく、心が落ち着きませんでした。
さて、褒美をもらい、立って行こうとすると、守は腹心の郎等(ろうどう・従者)を呼び、長いこと密談を交わしています。
これを見た書記は、胸が[どきどき]して気が気ではありませんでした。
郎等は密談を終えて出て行こうとして、「そこの書生殿、おいでくだされ。人目につかぬ所で、お話したい」と呼び出しました。
書記はしぶしぶ側に寄って聞こうとすると、やにわに二人の男に引っ張っていかれました。
郎等は胡?(やなぐい・矢を入れる物)を負い、弓をつがえて立ちはだかっています。
それを見て、書記が、「いったい、どうなさるおつもりか」と問うと、郎等は、「たいへんお気の毒とは存じますが、主人の仰せとあれば、断るわけにもまいらぬでのう」と言います。
書記は、「なるほど、やっぱり思っていた通りだ。だが、どこで殺しなさるのですか」と訊きます。
すると郎等は、「しかるべき物陰に連れて行って、こっそりやるつもりだ」と答えました。
そこで書記が、「主人の命令でなさる以上、そのことについて申すべきこともありません。だが、あなたとは、長年親しくしておりました。私の申すことをお聞きくださいませんか」と言うと、郎等が、「どういうことか」と訊くので、書記は、「じつは八十ほどになる老母を家に置いて、長年養っております。また、十歳ほどの幼い子も一人います。『これらの顔をもう一度見たい』と思うのですが、その家の前を連れて通ってくださいませんか。そうしてもらえれば、呼び出して顔を見ようと思います」と言います。
郎等は、「いともお安いことだ。それくらいのことなら、何でもない」と言って、家の方へ連れて行きます。
書記を馬に乗せ、二人の男が馬の口を取り、まるで病人でも連れて行くように、さりげない様子で連れて行きました。
郎等はそのあとから、胡?を負い、馬に乗って行きます。
さて、家の前を連れて通るとき、書記は人を中に入れ、母に、「これこれしかじか」と事の次第を言い遣ると、母は人に寄り掛かって門の前に出て来ました。
見れば、髪は灯心をのせたようで、よぼよぼの老婆であります。
子どもは十歳くらいで、妻が抱いて出て来ました。
書記は馬を止め、近くに呼び寄せて母に言いました。
「私は少しも間違ったことはしていませんが、前世からの宿命で、命を召されることになりました。あまりお嘆きくださいますな。この子は、たとえ他人の子になったとしても生きてゆけるでしょう。ただ、おばばさまがこの後、どうなさるだろうと思うと、殺されるつらさより、いっそう悲しい思いがいたします。さあ、もう家へお入りください。もう一度だけ、お顔を拝見したいと思い、やってきたのです」と言います。
これを聞いて、この郎等は泣きました。
馬の口に付いていた者たちも涙を流しました。
母は聞いて泣き惑うているうちに、気絶してしまいました。
だが、郎等はいつまでもこうしていられず、「長々と話すでない」と言って、引き立てて行きました。
そのあと、栗林の中に連れ込んで射殺し、首を取って帰って行きました。
思うに、日向守は、どのような罪をこうむったことであろうか。
虚偽の文書を書かせるのでさえ罪が深いのに、まして書いた者を罪もないのに殺すなど、その罪の深さが思いやられます。
これは重い盗犯と同じだと、聞く人はみな憎んだ、とこう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柳瀬照美
本話について
国の最高責任者が在任中の官物横領などの悪事露顕を恐れて、事務引き継ぎ文書を改ざんさせ、秘密の漏えいを防ぐため、それをやらせた地元の役人の書生を郎等に命じて殺させる――などという犯罪は、似たようなことが後の世でも、そして現代でもありそうな話である。
日向守の名を『今昔物語集』の作者が記さなかったのは、差し障りがあったのであろうか。
日向国は遠国で、日向守某が殺人を犯しても糾弾されないと考え、その通りだったとしても、『今昔物語集』の作者の耳にまで届いたこの話は都の人びとの口の端にのぼったに違いなく、罪を問われなくとも、当の本人は外聞の悪い想いをしたことだろう。
日向守某についての考察
汚職や殺人を犯しても捕まらない。名前が分かっていても大きな声では言えない大物。
それを手掛かりに考えてみると――。
現在、分かっている日向国の国司で、受領の時代に守を勤めた大物の人物はふたり。源重之(みなもとのしげゆき)と藤原保昌(ふじわらのやすまさ)が該当する。
源重之は、三十六歌仙の一人。清和天皇の第三皇子・貞元親王の孫で、三河守・源兼信の子。父が陸奥国に土着したことから、伯父の参議・源兼忠の養子となる。村上朝で、東宮の護衛、帯刀の筆頭・帯刀先生(たちはきせんじょう)を務めた。
東宮が即位して冷泉天皇となると、近衛府の三等官・将監になり、従五位下に叙される。次代の円融朝では、相模権守、信濃守、日向守、筑前守などを歴任している。
藤原保昌は、円融院判官代を務めたのち、一条朝で日向守、肥後守など九州の地方官を務め、大和守の後、左馬権頭となる。日向守になったのは、正暦3年(992)。
藤原道長・頼通の家司も勤めた。また武勇に優れ、道長四天王の一人に数えられた。歌人でもある。
藤原保昌は威厳があり、盗賊にも情けをかける太っ腹な人物だったようで、書生が抱いた「よからぬ性質の持ち主」という印象とは、いささか違っている。また、父の致忠は殺人の罪で流罪となっているし、弟の保輔は追討の宣旨が十五回も出された盗賊だったので、世間が悪く見ていたかというとそうでもなく、むしろ時の権力者・藤原道長には気に入られていて、歌人の和泉式部との結婚を勧められるほどだった。
さらに、道長の頃から受領国司の功過定(こうかさだめ)、つまり評価が変わり、税の完納が必須の条件ではなくなった。十世紀後半に財政の再編があって、道長と後一条天皇の時代に、功過定の整備と審査項目の追加が行われたのだった。
ということで、時期と人柄から消去して、日向守某は源重之の可能性が高い。
重之の和歌には、旅の歌や不遇を嘆く歌が多く、太宰大弐・藤原佐理を頼って筑紫に下向した後、陸奥守・藤原実方に従って陸奥国へ赴き、長保2年(1000)頃、そこで没したという。
武人として名高く、恋多き女として有名な和泉式部の夫となった保昌に比べて、わびしい最後だったように思う。
状況を見れば、源重之は濃い灰色だけれども、これは一考察に過ぎない。他に真犯人がいるかもしれない。
真実は歴史の中に埋もれ、罪もなく殺された下級役人がいたことを、この説話だけが今に伝えている。
〈『今昔物語集』関連説話〉
受領について:巻28「信濃守藤原陳忠御坂に落ち入る語第三十八」
藤原保昌:巻25「藤原保昌の朝臣盗人の袴垂に値ふ語第七」
【参考文献】
小学館 日本古典文学全集24『今昔物語集四』
日本の歴史 第06巻『道長と宮廷社会』大津透著、講談社
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