巻二十四第四十八話 大江定基、飢えたる女の和歌に感動する

巻二十四

巻24第48話 参河守大江定基送来読和歌語 第四十八

今は昔、大江定基朝臣(おおえのさだもとのあそん)が三河守(みかわのかみ・現在の愛知県東部の国司)だったころ、世の中が大飢饉に見舞われ、食べ物がまったく無い時期があり、その五月の長雨のとき、ある女が定基朝臣の家へ鏡を売りに来たので、呼び入れて、手に取って見ると、五寸(約15センチ)ほどの蓋のついた布張りの箱で、沃懸地(いかけぢ・漆塗りの地に金銀粉を流したもの)に金の蒔絵(まきえ)が施してあり、それを香ばしい陸奥紙(みちのくがみ・厚手の良質な和紙)に包んでありました。
蓋を開けて見れば、鏡の入っている箱の内側に、薄い鳥の子紙を引き破って、美しい筆跡でこう書いてあります。

今日(けふ)までと 見るに涙の増す鏡
慣れぬる影を 人に語るな

(この手慣れた鏡を持つのも今日までだと思うと、いっそう涙がこぼれて仕方がない。鏡よ、日ごろ見慣れた私の姿を、この先、人に語らないでおくれ)

定基朝臣はこれを見て、ちょうど出家の想いがきざしているところだったので、ひどく涙を流し、米十石(10こく・100斗、約1800リットル)を車に入れ、鏡は売り主に返却させて、米を積んだ車を家へ来た女に添え、送り届けてやりました。
女の歌への返歌は鏡の箱へ入れてやりましたが、車につけてやった雑色(ぞうしき)の男が帰って来て返歌の中味は言わずに、語ったのを聞くと、五条通りと油小路の交差するあたりの、荒れ果てた檜皮葺(ひわだぶき)の家の中へ車を引き入れた、ということでありました。

瑞花双鳳八稜鏡 平安時代(11~12世紀)重要文化財 東京国立博物館

それは、だれそれの家であるとは言わなかったのだろう――とこう語り伝えているということです。

【原文】

巻24第48話 参河守大江定基送来読和歌語 第四十八
今昔物語集 巻24第48話 参河守大江定基送来読和歌語 第四十八 今昔、大江定基朝臣、参河守にて有ける時、世の中辛くして、露食物無かりける比、五月の霖雨(ながあめ)しける程、女の鏡を売りに定基朝臣が家に来たりければ、取入れて見るに、五寸許なる押覆ひたる張筥の、沃懸地(いかけぢ)に黄に蒔絵(まけ)るを、陸奥紙の馥(か...

【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柳瀬照美

大江定基について

大江定基が三河守だったころ、鏡を売る女の和歌に道心を刺激され、米10石に返歌を添えて女の家へ送り届けた話。三河入道寂照(寂昭とも)、俗名・大江定基の道心譚として当時、著名だったもの。
(大江定基の出家については、巻19第2話に詳しい)

巻十九第二話 大江定基、出家して寂照となる(その1)
巻19第2話 参河守大江定基出家語 第二 今は昔、円融天皇(えんゆうてんのう)の御代に、三河守(みかわのかみ・現在の愛知県東部の国司)大江定基(おおえのさだもと)という人がいました。 参議左大弁式部(さんぎさだいべんしきぶ)済光(なりみ...
巻十九第二話 大江定基、出家して寂照となる(その2)
巻19第2話 参河守大江定基出家語 第二  (その1より続く) そののち、寂照(じゃくしょう)は京の町で喜捨を請うて歩いていましたが、とある家に至ると、彼を家へ呼び上げて畳に坐らせ、ご馳走を供えて食べさせようとします。そのとき、簾を巻き...

三河国の国司だった大江定基は、従五位。給与は現物支給で、布や綿や鍬でもらう。これを米に引き換え、生活費とする。
『王朝貴族物語』(山口博著、講談社)の換算によれば、従五位の年収は179石4斗6升。位のみでの収入がこれで、他に三河守としての収入があるので、定基にとって、米10石はたいした出費ではない。けれども、現在の料理本で1食米は半合とあるのをもとに、平安時代の1日2食として計算すると、食べるだけなら、大人10人が2年ほど食べられる量である。米や布は通貨の代わりとなっていたので、他にも出費があれば、女主人と数人の従者の暮らしでは、1年ほどの経費になるだろうか。
大江定基が、慶滋保胤こと僧・寂心のもとで出家したのは、永延2年(988)。尾張国の郡司・百姓が国司の藤原元命の非政を訴えた年でもある。捜したところ、その前年あたりの記録では全国的な飢饉は起きておらず、京周辺の出来事だったのかもしれない。

古代の飢饉と海面上昇

飽食の時代と言われて久しく、世界のどこかで飢饉が起きているにも関わらず、平成・令和に生きる私たちのほとんどは、幸いなことに飢えるということを知らない。けれども歴史を顧みれば、先祖たちは幾度も大規模な飢饉に遭遇してきた。

教科書などでよく知られているのは、近世の三大飢饉「享保の飢饉(1732-)」、「天明の飢饉(1782-)」、「天保の飢饉(1833-)」で、死者については、享保では100万人、天明では110万人、天保では30万人と言われている。
享保は西日本でのイナゴの害から始まり、天明では冷害のあとに噴火した岩木山と浅間山の火山灰によって発生、食人の記録も残されている。天保では、洪水や冷害による大凶作からで、全国で一揆や大塩平八郎の乱が起きた。

明治になって農業技術の進歩などで大規模な飢饉は減ったとはいえ、東北を中心に幾度も飢饉が起こり、昭和に入った1930年から1934年にかけて、「昭和東北大凶作」と呼ばれる飢饉が発生し、東北では女性の身売りが頻発、世界恐慌と重なって、日本は戦争の時代へと突入する。

近世以前、鎌倉・室町・戦国の中世は飢饉の時代といわれ、生きるために人びとは妻子や自分自身を売った。
鎌倉時代の「寛喜の飢饉(1230-1231)」は、平安時代に源平合戦と飢饉が重なった「養和の飢饉(1181)」以来の大飢饉で、極端な寒冷気候が原因となった。また、正元1年(1259)にも全国的な大飢饉が起きている。
室町時代では、応永27年(1420)、数年続いた少雨からの干ばつで大飢饉が発生。応仁の乱(1467-1477)が起きる少し前の寛正元年(1460)から翌年にかけて、風水害や疫病で多くの人びとが亡くなった飢饉もあった。
江戸初期にも、「寛永の飢饉(1640-)」が起こり、これによって土地を売る農民が続出したため、幕府は寛永20年(1643)、『田畑永代売買禁止令』を出した。

中世より以前、飢饉の最古の記録としては、『日本書紀』祟神天皇5年に「疫病により人民の半分が死に、飢饉となった」という記述があり、また欽明天皇28年(567)には飢饉のため、食人が行われたという記録がある。
『今昔物語集』が成立して40~50年後の養和元年(1181)、鴨長明の『方丈記』によると、干ばつを原因とする「養和の飢饉」が起きている。都の左京だけで、4万2300人が亡くなったという。

餓鬼草紙(部分) 平安時代(12世紀)国宝 東京国立博物館 仏教の世界観を描いたものだが現実の飢饉が大きな影響を与えている

地球的な規模で見るならば、奈良・平安・鎌倉の10世紀から14世紀は温暖期、室町から昭和の初めまでの14世紀から19世紀は小氷期だと言われている。とはいえ、温暖だから飢饉が起きないというわけではない。温暖のときは干ばつが原因となる。特に「養和の飢饉」のときは、西日本がひどい日照りで、源氏と平氏による争乱期、つまり治承・寿永の乱の最中に起きたので、その勝敗に大きな影響を与えたと言われている。

気候学専攻の理学博士、山本武夫氏の『気候の語る日本の歴史』によれば、平安時代は現在より2~3度気温が高く、東北地方が過ごしやすい気候だったという。
海水面も一定ではなく、海退と海進を長い年月、繰り返している。日本では、縄文時代と平安時代に現在よりも海面が上昇した。
8世紀から12世紀の時期は世界的に温暖で、オーストラリアのロットネスト島に海面上昇の痕跡が見つかったため、「ロットネスト海進」と呼ばれるものが日本では平安時代に該当するため、「平安海進」と言われている。これによって海岸近くの集落が沈み、菅原孝標女の『更級日記』には、下総国にあった富豪の屋敷跡の門柱が川の中に立っていたという記述がある。

海進。地質学的に安定している23の潮位観測点で計測。現在も年約2mmずつ上昇している

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【参考文献】
小学館 日本古典文学全集23『今昔物語集三』
小学館 新編日本古典文学全集3『日本書紀②』
小学館 新編日本古典文学全集26『和泉式部日記 紫式部日記 更級日記 讃岐典侍日記』
『方丈記』簗瀬一雄訳注、角川書店
『王朝貴族物語』山口博著、講談社
『大飢饉、室町社会を襲う!』清水克行著、吉川弘文館
『日本史必携』吉川弘文館編、発行
『気候の語る日本の歴史』山本武夫著、そしえて
『全集 日本の歴史 第4集 揺れ動く貴族社会』川尻秋生著、小学館

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