巻19第2話 参河守大江定基出家語 第二
(その1より続く)
そののち、寂照(じゃくしょう)は京の町で喜捨を請うて歩いていましたが、とある家に至ると、彼を家へ呼び上げて畳に坐らせ、ご馳走を供えて食べさせようとします。そのとき、簾を巻き上げた内によい着物をきた女が坐っていました。
見れば、むかし自分と離婚した妻であります。
女は、「どう、この乞食のざまは。いつかこんな風に乞食をするのを見ようと思っていたのよ」と顔をしげしげと見ますが、寂照は恥ずかしく思う様子もなく、「ああ、ありがたい」と言って、持ってきたご馳走を十分に食べて帰って行きました。
まことに、まれに見る尊い心であります。
道心が強く生じていたので、かような不信心者に会っても騒がず、尊い態度を保っていたのでした。
その後、寂照は「中国に渡り、尊い聖跡を巡礼したい」という思いが生じ、渡る準備をしていましたが、彼の子に□□という僧が比叡山にいました。
寂照が中国に渡る別れの挨拶をしようと比叡山に登り、根本中堂に参詣して日吉神社に詣でて帰るついでに、子の□□の僧房に行って戸を叩くと、戸を開けてその□□が僧房の縁側に出て来ました。
七月中旬ごろのことなので、月がこうこうと照り輝いているところで、寂照は縁側で子の□□と向かい合い、「わしはかねて尊い聖跡を巡拝しようという希望を持っていたが、今度、中国へ渡ろうと思う」と言い、「帰ってくることは難しいと思うので、お前の顔を見るのも、もう今夜限りだ。お前はまちがいなくこの山に住んで修行し、学問を怠らずせねばならぬぞ」と泣く泣く語ると、□□もとめどもなく涙にくれるのでした。
このように言って、寂照は京へ帰るのですが、□□は大嶽(おおたけ)まで見送ったのでした。
月は非常に明るく、露があたり一帯に白く置いています。
虫の声もさまざまに鳴き乱れて哀れをもよおしています。
何もかも、しみじみと身にしみるほど物悲しく思われます。
下の方まで送って行きましたが、寂照は、「早く帰りなさい」と言って、霧の中へ姿を消してしまったので、そこから□□は泣く泣く帰って行きました。
そののち、寂照は中国へ渡り、かねての念願通り、あちこちの聖跡を拝んで回りました。
皇帝(北宋・真宗)も、彼が来るのを待ち受けて深く敬い、帰依されました。
あるとき、皇帝はこの国のすぐれた聖人たちを召し集め、仏堂を飾り、僧への供え物をととのえ、心を込めて供養されましたが、そのおり皇帝は、「今日の斎会(さいえ)には給仕の者は入って来てはならぬ。ただ、前に置いてある鉢をめいめいが飛ばして、食事を受けるがよい」とおっしゃいます。
それは日本の寂照を試そうとの考えでした。
そこで仰せのままに、一番上位の和尚(わじょう)から始め、順々におのおの鉢を飛ばして食事を受けましたが、寂照は出家受戒の年数が若かったので、最末席に着いていたところ、自分に番が回ってきて、鉢を持って立とうとしたとき、それを見た人が、「そんなことをしてはいけない。鉢を飛ばして受けなさい」と言います。
そのとき、寂照は手に鉢を捧げ持って言うには、「鉢を飛ばせることは特別の行法であって、その行法を修行してはじめて飛ばすことができるのです。しかし、この寂照は、まだその法を習っていません。日本の国では、昔はその法を習った人がまれにあったと伝え聞いていますが、この末世には、その法を行う人はいません。もう絶えてしまったのです。それゆえ、どうして寂照が鉢を飛ばし得ましょう」と答えて坐ったままでいると、「日本の聖人の鉢は遅い」と、しきりに催促するので、寂照は途方に暮れて、心をこめ、「我が故国の三宝よ、どうぞお助けください。もし私が鉢を飛ばせ得なかったら、故国にとってひどい恥となります」と、念じていると、寂照の前の鉢がにわかに独楽(こま)のようにくるくると回りはじめ、前の僧たちの鉢より早く飛んで行き、食事を受けて帰ってきました。
これを見て、皇帝をはじめ、大臣・百官たちみな、この上なく拝み尊ぶのでした。
その後、皇帝は寂照に深く帰依されるようになったのでした。
また、寂照は五台山(ごだいさん・長安の東北にあることから文殊菩薩の住む東北方の清涼山に擬した文殊の聖地)に参詣して、種々の功徳行を修めましたが、その行の一つとして、湯を沸かして衆僧に入浴させることをしていたとき、まず衆僧が供膳の座に居並んでいると、ひどくきたならしい様子の女が子供を抱き、犬を一匹連れて寂照の前へ出て来ました。
女はできものだらけで、きたないことこの上ないほどです。
見る人はみな、きたながって大声で追い払おうとします。
寂照はそれを制して、女に食べ物を与えて帰らせようとしました。
するとこの女は、「私は身体にできものが出来て、なんとも苦しくつらいので、お湯に入れていただこうと思って参ったのです。入浴のききめを少し私におわかちください」と言います。
人びとはこれを聞いて、いっそうののしり追い払います。
女は追われて後ろの方に逃げ去り、そっと浴室へ忍び込んで、子を抱いたまま犬を連れ、ざぶざぶと音を立てて、湯を浴びました。
人びとは、この音を聞き、「叩き出してしまえ」と言って、浴室に来てみると、女はかき消すようにいなくなっていました。
そのとき、人びとは驚き怪しみ、浴室の外へ出てあたりを見回すと、軒の辺りから上へ向かって紫の雲が光を放ちながら昇っています。
人びとはこれを見て、「さては文殊菩薩が変化(へんげ)して、女になっておいでになったのだ」と言って泣き悲しんで礼拝しましたが、もはやあとの祭りでありました。
これらの話は、寂照の弟子で念救(ねんぐ)という、一緒に中国に渡った僧が帰朝して語り伝えたものです。
中国の皇帝は寂照に帰依して、彼に大師号を賜り、円通といいました。
これも機縁によって出家し、このように他国において尊ばれることになったのである――とこう語り伝えているということです。
【原文】
【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柳瀬照美
寂照の比叡山にいた子の名は、僧名の明記を期した意識的欠字。
長保5年(1003)に寂照は宋へ渡り、北宋の第三代皇帝・真宗(しんそう)から紫衣と円通大師の号を賜る。帰国せず、長元7年(1034)、もしくは8年、77歳で杭州にて没した。
寂照の入宋後の逸話については、弟子の念救が長和2年(1013)に勧進のため帰朝した際、語ったものが核となっているという。
念救は土佐国の人。宋にあって寂照に近侍し、長和2年に大宋国知識使として帰朝。天台山国清寺より延暦寺への贈り物を届けると共に、藤原道長以下の貴族を勧進して、多額の金品を天台山大慈寺などに寄進させている。
長和4年(1015)ごろ、寄進物を持って再度入宋し、その際、道長が経論購入のため、黄金百両を念救に託して寂照へ送っている。
【参考文献】
小学館 日本古典文学全集22『今昔物語集二』
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