巻十九第二話 大江定基、出家して寂照となる(その1)

巻十九

巻19第2話 参河守大江定基出家語 第二

今は昔、円融天皇(えんゆうてんのう)の御代に、三河守(みかわのかみ・現在の愛知県東部の国司)大江定基(おおえのさだもと)という人がいました。
参議左大弁式部(さんぎさだいべんしきぶ)済光(なりみつ・正しくは斉光)という博士の子であります。
慈悲深く、学問は人にすぐれています。
蔵人(くろうど・天皇の秘書官)の職を勤めあげて、三河守に任じられました。

ところで、定基は前からずっと一緒に住んでいた本妻に加えて、若い盛りの美しい女を愛するようになり、どうにも離れがたい想いを抱いていましたが、それを本妻がひどく嫉妬し、たちどころに夫婦の縁が切れて別れてしまいました。
そこで定基はこの若い女を妻としていましたが、それを伴って任国の三河国へ下って行きました。

さて、この女は三河国にいるうち重い病に罹って、長らく病床で苦しむようになり、定基は身も世もあらぬ思いで嘆き悲しみ、平癒のためにさまざまな祈祷を試みてはみましたが、その病はどうしても治らず、日が経つにつれ、女の美しかった容貌もしだいに衰えていきました。
定基はこれを見るにつけ、悲しみの心はたとえようもありません。
しかし、女はとうとう病が重くなって死んでしまいました。
死後、定基は悲しみに堪えられず、いつまでも葬ることをせずに、女を抱いたまま共寝をしていましたが、数日経って、女の口を吸ったところ、その口からなんともいえぬ、くさい臭いが出て来たので、にわかにうとましくなり、泣く泣く葬ることにしました。
それ以後、定基は、「この世は憂きものだ」と悟り、たちどころに道心をおこしたのでした。

その後、この国で土地の者たちが風神を鎮め、豊穣を祈る風祭りということをし、生贄としてイノシシを捕えて生きたまま切り裂いているさまを見て、ますます道心が強くなり、「直ちに、この国を去ろう」と思うようになったおり、生きたキジを捕えて持ってきた人に、守(定基)は、「どうだ、この鳥を生きたまま料理して食おうではないか。死んだのよりは一段と味が良いかもしれぬぞ」と言いました。

風神(俵屋宗達 風神雷神図屏風)

 守のご機嫌を取り結ぼうと思っている思慮のない家来どもがこれを聞いて、「それはまことに結構なことでございます。そうすれば、味が良くなるのは請け合いです」と勧めて言えば、多少とも物の情けをわきまえた者たちは、「あきれたことをするものだ」と思いました。
こうして、キジを生きたまま持って来させて羽毛をむしらせると、しばらくの間、ばたばたとしていましたが、押さえつけ、やみくもにむしりにむしると、鳥は目から血のような涙を流し、目をしばたたいて、回りの人びとの顔を見るのを、こらえきれずに立ち去る者もいましたが、「鳥が泣いているぞ」と、笑いながら残酷にむしる者もいました。
むしり終わると切り裂かせ、その刀に添って血がたらたらと流れ出るのを、刀を拭い拭いして切り裂くと、鳥はなんともいえぬ苦痛の声をあげて絶命したので、裂き終えてから、それを煮たり焼いたりして賞味させると、「ことのほかにおいしゅうございます。死んだものを切り裂いて煮たり焼いたりしたものとは比べ物になりません」と言うのを、守はつくづくと見聞きしていて、目から大粒の涙を落とし、大声で泣き出したので、「いい味だ」と言った者は恐ろしくなってしまいました。


守は、その日の内に国府を出て、京に上りました。
道心が強く固まったので、髻(もとどり)を切って法師になりました。
名を寂照(じゃくしょう)といいます。
世に三河入道というのは、この人のことです。
「よくよく道心を固めよう」と思って、このような驚くべきことをしてみたのでした。

その2に続く)

【原文】

巻19第2話 参河守大江定基出家語 第二
今昔物語集 巻19第2話 参河守大江定基出家語 第二 今昔、円融院の天皇の御代に、参河の守大江の定基と云ふ人有り。参議左大弁式部大輔済光と云ける博士の子也。心に慈悲有て、身の才、人に勝たりける。蔵人の巡に参河の守に任ず。

【翻訳】
柳瀬照美
【校正】
柳瀬照美・草野真一
【協力】
草野真一
【解説】
柳瀬照美

聖地巡礼のために入宋して帰らなかった三河入道・寂照(大江定基)は典型的な求道僧として当時の人びとから尊敬と憧憬を集め、寂照をめぐる多彩な伝承が形成された。本話はその伝承のいくつかを集めたものである。

大江定基(おおえのさだもと・?-1034)は、醍醐・朱雀・村上の三代の天皇の侍読(じどく・かていきょうし)を勤め、従三位・中納言にまで上った大江維時(おおえのこれとき・888-963)の孫で、父はその次男の斉光(934-987)。
定基の父の斉光は、親王のときの冷泉天皇の東宮学士を勤め、大学頭をへて式部大輔となり、地方官を勤めるかたわら、弁官を歴任し、蔵人頭を経て参議に任ぜられ、公卿に列し、最終的に正三位に上った。
斉光の第三子の定基も文章・和歌に秀で、蔵人として務めているときに、従五位下に叙された際、五位の蔵人に欠員がなかったため、三河守に転出した。
そのとき、もとから連れ添っていた妻ではなく、若い女を妻として連れていったところ、病で亡くなり、悲しみのあまり埋葬せずに女の亡骸を抱いて臥していたところ、数日して口を吸うと死臭がしたので、埋葬し、世の無常を感じて発心。
京に戻って永延2年(988)、内記上人・寂心(俗名・慶滋保胤)のもとで出家し、叡山三千坊のひとつ如意輪寺に住み、横川で源信(げんしん、恵心僧都・942-1017)に天台教学を、祈雨法で有名な真言宗の僧・仁海(にんがい・951-1046)に密教を学んだ。
寂昭・三河入道・三河聖とも称され、のちに北宋皇帝より、円通大師の号を賜る。

能の『石橋(しゃっきょう)』は、寂昭(寂照)をワキとしたものである。

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【参考文献】

小学館 日本古典文学全集22『今昔物語集二』

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