巻19第5話 六宮姫君夫出家語 第五
今は昔、六の宮というところに兵部の大輔(ひょうぶのたゆう、軍の下級役人)がありました。年老いていたので、古い習慣にならって人と交わることがなく、父が遺した宮の、すっかり木が伸びきって荒れ果ててしまった東のほうの館に住んでいました。年齢は五十歳ほど、娘がひとりありました。
娘は十歳あまりで、たいへんな美人であり、髪、姿かたち、非の打ちどころがありませんでした。心も美しく、気だてもよい娘でした。しかるべき人に嫁ぐこともできたはずですが、父母は彼女の美しさを世に知らせることができなかったので、求婚する者もありせんでした。「誰かいいよってくれる人があれば」という古い考えにとらわれていました。
「身分の高い方と交際させてあげたい」と思いましたが、貧しかったので望めませんでした。父も母も心配しましたが、ただ娘を二人の間に寝かせ、さまざま語ってきかせることしかできませんでした。そのため、乳母とは疎遠でしたし、頼るべき兄弟もありませんでした。心細く思うことばかりで、父母はこれをとても悲しみました。
そうするうち、父も母も、相次いで亡くなりました。姫君はどう思ったでしょうか。たとえようもなくあわれで悲しく、身の置きどころもありませんでした。
やがて、喪に服する時節も開けました。父母が信用ならない者だと語っておりましたから、乳母にも打ち解けることができないまま、月日は過ぎていきました。さまざまな調度品も、乳母がひとつまたひとつと売り払ってしまいました。姫君の暮らしは日に日に貧しくなり、あわれなありさまでした。心細く悲しく思いました。
ある日、乳母が言いました。
「私の兄弟に僧をしている者があるのですが、その者が申します。前司(前任の国司。前の地方行政官)で、二十余歳になられる方で、風采もよく、心ばえもよい方があるといいます。その方の父は今は受領(国司、地方行政官)ですが、上達部(かんだちめ、高位の貴族)の子ですから、いずれ昇進することでしょう(没落貴族であることを語っている)。その方がお声をかけてくださいました。もしその方があなたの元に通ってきても、いやしい者ではありませんから、今のように心細く過ごすよりも、いいように思います」
姫君はこれを聞くと、髪を振り乱して泣き入りました。
その後、乳母はたびたび男からの手紙をわたしましたが、姫君は見ようともしませんでした。乳母は若い女中に命じて、姫君の文と偽って返事を書かせました。このやりとりが続き、男はついに日を定めてあらわれるようになりました。姫君にはどうすることもできません。姫君はとても美しい方でしたから、男は夢中になり、志を尽くして思うようになりました。男も貴族の血筋にあたる人ですから、低俗なふるまいをすることもありませんでした。姫君も頼もしい人があるわけではないので、この男を頼りにするようになりました。
やがて、この男の父が陸奥(東北)の守に任じられました。春になり父は任国に下ることになりましたが、男も京に留まるわけにはいかず、父の共として行かなくてはなりませんでした。女を置いていくことはとても心苦しいことでしたが、結婚したと告げた仲ではなかったので、「つれていきます」とも言えず、心に思いを持ちながら、出発の日をむかえました。かならず戻ってくると深く契りをかわし、泣く泣く別れて、男は陸奥へ旅立ちました。
任国に着いてから、「消息を伝えよう」と思いましたが、手紙を託すべき確かなあてもなく、歎きながら過ごしているうちに、年月が過ぎていきました。
父の任期が明けた年、京に戻ろうとしていると、常陸(茨城県)の守という、任国ではなやかに暮らしている人が、「この陸奥の守の子を聟にしたい」と、人を遣わしてたびたび迎えによこしました。父の陸奥の守は喜び、「とてもよいことだ」と言って、息子を常陸にやりました。
陸奥国に五年いて、常陸に三、四年おりました。京を出てから七、八年になります。常陸で妻とした女性は若く、かわいげのある人でしたが、京の姫君とは比べることもできません。常に心は京にあったのですが、恋い焦がれてもどうしようもありません。京には何度か手紙を送りましたが、あるいは尋ね得ない(宛先不明)のでそのまま持ち帰ってきましたし、あるいは手紙を持って行った使者が戻ってきませんでした。
やがて、(義理の父である)常陸の守の任期が終わり、京に戻ることになりました。聟も戻ることができました。道中、日よりが悪いということで粟津(滋賀県大津市)に二、三日滞在しましたが、気が気ではありませんでした。
京に入る日、「昼は見苦しいから」といって、日が暮れてから入京しました。すぐさま妻を養父の常陸の守の家に送り、自分は旅装束のまま、六の宮に急ぎました。以前は崩れながらも残っていた土塀があったのですが、それは失せており、四足の門(屋根つきの門)の跡形もありません。寝殿の東側の屋敷もなくなっていました。政所屋(まんどころや、事務所)だった家屋だけ、ひどくゆがんで残っています。池には水がなく、葱(なぎ、水草)が生い茂り、とても池には見えません。趣あった庭の木も、ほとんどは失われています。このありさまを見て、心迷い肝が騒ぎました。あたりの人に聞いてみましたが、消息を知る人はありませんでした。
政所屋の壊れ残ったところに、人が住んでいる気配がしました。近づいて声をかけると、一人の尼が出てきました。月の光に照らして見ると、姫君の下女の母だった女です。男は寝殿の柱が倒れたところに腰をかけ、尼に問いました。
「ここに住んでいた人はどこに行ったのだ」
尼は答えようとしませんでした。
隠しているように思えました。十月十日ごろ(陰暦。現在の十一~十二月)ですから、あたりも寒かったので、男は着ていた衣を脱ぎ尼に与えました。尼は大いにあわてて、
「いったいなぜこのようなものを私にくれるのですか」と言いました。
「私はしかじかの者である。おまえは私を忘れてしまったのか。私はおまえを覚えている」
尼はこれを聞くと、むせかえって泣きました。
尼は言いました。
「知らない人が尋ねているのかと思って、だまっていました。あなたならば私の知っているかぎりのことをお伝えいたします。あなたが陸奥の国に参ってから一年ほどは、『連絡があるかもしれない』と待っておりましたが、絶えてありませんでした。『忘れてしまったのだろう』と思いましたが、しばらくはそのままになっておりました。二年ほどたって、乳母の夫が他界しました。もはや姫君の世話をする者はなく、みなちりぢりにやめていきました。寝殿は殿の内の人の焚き物になり、壊れてしまいました。姫君がお住まいになっていた館も、道行く人が壊して、一年前の大風で倒壊しました。姫君は、二、三間(約5メートル)ほどの侍の詰め所にいらっしゃって、あるかなきかの暮らしをしていました。私は、娘の夫について但馬(兵庫県の一部)の国に行きました。京にあっても誰も雇ってはくれないと考えたからです。去年のことでしょうか、姫君がどうしていらっしゃるかと思い、ここをたずねましたが、ごらんのとおり寝殿も失せ、跡形もなくなっています。姫君の消息をたずねましたが、知っている人もございません」
尼は涙ながらに語りました。男はこれを聞いて、悲しみに沈みつつ戻りました。
家に帰り着きましたが、姫君と会わずには生きている甲斐がないと思い直し、「ただ、足のおもむくままに探し歩こう」と考えて、参拝者の服装をして、藁履(わらぐつ)をはき、笠を着て、方々をたずねまわりました。見つけられず、「西京(スラムとして名高かった)にいるかもしれない」と思い、二条から西に、大垣にそって歩いて行くと、申酉(さるとり、午後五時)ごろ、空がにわかに暗くなり、しぐれが痛いほど降ってきました。
「朱雀門の前の西の曲殿にいるかもしれない」と思い近寄ってみると、連子(れんじ、格子)の内に人の気配がありました。のぞいてみると、汚れたきたない筵(むしろ)をひいて、二人の人がありました。一人は年いた尼で、もう一人はとても痩せ枯れ、色が青く、影のような若い女でした。いやしい筵の破れたものを敷いて、そこに臥しています。牛の衣のような布衣を着て、破れた筵を腰にかけ、手を枕にしていました。
「とてもいやしい姿であるが、どこか気品がある」と怪しく思って近くに寄ってみれば、たずねていた姫君でした。あたりは暗くなってきましたし、心騒ぎじっと見つめていると、女がかぼそい声で言いました。
たまくらのすきまの風もさむかりきみはならはしのものにざりける
(以前は手枕してひとりで寝るときのすきま風さえ寒いと感じていたのに、今は貧しい暮らしに慣れてしまった)
間違いないと思えたので、あさましく思いながら、筵を開いて言いました。
「なぜ、どうしてここにいるのですか。ずいぶん迷い歩き、探し回ったのです」
近寄って女を抱きしめると、行ってしまったと思っていた男が来たことの衝撃が大きかったのでしょう、そのまま消え入るように亡くなってしまいました。
男はしばらく「息を吹き返す」と信じ、かき抱いていましたが、やがて冷たくなっていきました。男はそれから家に帰らず、愛宕護(あたご、京都市右京区)の山に行って、髻を切って法師になりました。道心のゆたかな人でしたから、貴く修行したと伝えられています。出家はずっと思っていたことでした。これが機縁となったのです。
この話はくわしくは伝えられていませんが、『万葉集』に記されたものと語り伝えられています。
【原文】
【翻訳】
草野真一
【解説】
草野真一
救いのない話。
姫君は成長するとともに、多くのものを失っていく。父母の愛。家財。男は夫ではなく、望んで得たものでもない。やがてはそれさえ失って、貧困の中で死んでいく。
一応は男の出家譚になっている(原題もそれに応じてつけられている)が、あきらかに話の主軸は姫君の不幸な生涯にある。
あまりに救いがないから、芥川龍之介は小説にしたのではないか。
芥川には『今昔物語集』ほかに題材をとった「王朝もの」と言われる一連の作品がある。これはその末尾に執筆された短編のひとつ『六の宮の姫君』の元話である。
ストーリーの改変箇所は枚挙にいとまがないが、もっとも大きいのは姫君のキャラクター、わかりやすく言えば死にざまだ。
彼女は念仏をとなえ極楽を幻視するが、ついに救われず逝った。元話には登場しない高徳の上人が世をはばかる姿で彼女を悼んでいるのも、彼女が救われていないことを知っていたためととることも可能だろう。
『六の宮の姫君』は毀誉褒貶相半ばするが、芥川本人はこの小説に愛着を感じていたらしく、自薦集に幾度となく収録している。
http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/jinbun/web/img/pdf/research26/002.pdf
『万葉集』に伝えられていると記されているが、該当の話は『万葉集』にはない。『今昔物語集』編纂当時、歌物語を遺そうという機運があったそうで、これはそこから得た話ではないかと推測されている。
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